見出し画像

世界遺産になった縄文遺跡群を廻る旅 /2つの日時計と2つのストーンサークル -大湯環状列石(3)-

東西南北や季節の廻りやだけでなく、
数をも身近にしていたと思われるストンサークルに集う縄文人たち。

彼らが「信じていた」「こだわっていた」と思われることは他にも…

3と二至二分にしにぶん

〝2つの日時計とストーンサークルを結んだ線の先‘’にあったのが「夏至の夕日が沈む方向」

ここに暮らす人々が一年の巡りを確実に知り、それを元に狩猟や採集、冬の生活の準備をするなどの生活を送っていた…というのが前回までのお話し。

さらに、季節の節目・二至二分(春分、秋分、夏至、冬至)も意識していたのかもしれない…そのように想像できるような痕跡が見られます。

それが柱列はしられつと呼ばれるもの。

2つのストーンサークルのうち、大きい方の万座環状列石まんざかんじょうれっせき南西方向一直線に柱が並んでいるのが柱列はしられつ』。
実際に残っていたのは〝約50㎝の太さの柱〟が立っていたと思われるで、このような高い柱が立っていたと推測されるものです。同様のものは北側にもありました。

10m間隔に大木が3本1組になったものが2つ
それぞれの3本の柱一直線に並んでいます。

2つの列は同じ方向を向いて並んでいますが、
横一線に並ぶのではなく、その位置は少しづれています。

規則的に並んだ2つの列
何のためにたてられたのか、
柱の上に何か建物があったのかは、わかっていません。

ガイドブックより

3本一直線に並ぶ…
こんに太い柱を立てることを考えると、単なる偶然ではないようです。

同じように等間隔に並んだ3本柱の跡は、能登半島の遺跡からも見つかっています。
それは春分と秋分の日の出と日の入りの方向に並んでいたことが分かっているそうです。

また、青森県の三内丸山遺跡大型掘立柱建物おおがたほったてばしらたてものと呼ばれる巨大な柱(実際に土に埋まっていた柱部分が残っています)も3本1組
こちらは一直線ではなく向かい合って2列になっていますが、その柱の間からは夏至の日には太陽が昇り、冬至の日には反対側に太陽が沈んでいく…といいます。それらの時間は太陽の光線 が放射状 にキラキラと輝くそうです。

このように3本の柱日の出と日の入り
〝春分と秋分〟〝夏至と冬至〟の日の出や日の入りの角度や長さ、方向を示す構築物である可能性があるようです。
そして〝3〟という数字には何らかの意味を持っていたように思えます。

世界を見廻すと、夏至と冬至を意識している地域は多くあるものの、春分と秋分が日本ほど生活に根付いている国はないといいます。

四季があり、なおかつ山や谷が多く多種多様な気候である日本列島、一年を二十四節気にじゅうしせっきとして意識し生活してきた私たち。

季節の訪れを一歩先んじて察知し、狩猟や採集作業をしたり冬支度をする…ひょっとすると縄文時代には既にこのような考えがあったのかもしれませんね。

緑の石

2つあるストーサークルの石の総数は約8500個その60%一種類の石で占められています。

それらは小さくても10㎏、大きいものでは200㎏を超え、規則的に割れる性質を持っています。7㎞離れた山に元となる岩石があり、そこから川を流れてきました。

川を流れるうちに石の角が丸くなり、磨かれ、滑らかな姿になった石。石の状態から川の2~4㎞上流から運ばれたと考えられるそうです。

この石は石英閃緑せきえいせんりょくひんがんと呼ばれる緑色を帯びた石です。

ストーンサークル館でこの石と同様のものが展示されていました。
写真では分かりにくいのですが、実際に目にするとうっすら緑色であるのが分かります。
重さを確かめられるということでチャレンジしましたが、この片手で抱えられサイズの石は私の力ではびくともしませんでした。

こんなに重い石をわざわざ2~4㎞の上流から運んだのです。〝緑の石〟への強いこだわりがあったと考えられるようです。

そしてこれは祭祀の際に身に付けたと考えられる
僅か1㎝ほどの小さな翡翠ひすいで出来た装身具です。

数多くの装身具の中でこれが唯一の翡翠ひすい製品です。

周辺では翡翠ひすいが採れる場所がなく、新潟の糸魚川周辺で採取されたものが舟で日本海を北上し青森へと運ばれ、そこから陸路でこの地へとやってきたと考えられています。

当時の翡翠ひすいの価値はとてつもないもので、一説にはムラまるごとほどの価値があったとも言われています。

それを証明するかのように、小さなムラの遺跡からは翡翠ひすいが出土することは少なく、大きなムラの遺跡からでもただ一つ出土するということも多いのです。
縄文時代に広く翡翠ひすいが価値あるものとして共通認識されていたことが、これらの出土状況から見えてきます。

翡翠ひすいの魅力はその輝き、美しさは勿論のこと、その価値はこの翡翠ひすいに何か特別な意味が隠されているようです。

今から約1万5000年前に始まった縄文時代、
それから1万年以上経た今から約4000年前(縄文時代後期)にこの大湯環状列石おおゆかんじょうれっせきは作られました。

ストーサークルを中心とした社会は、暦や数、確たる信じるものによって秩序を保ち、500年間も続いたと想像できるようです。

私たちが従来思い描いていた〝その日暮らし的な原始的〟な姿は、もはやこの時代にはなかった、と言えるようにも思えてきます。

来年は〝夏至の夕日〟を見に行きたい!
その時また何かをお伝えできればと思っています。

*参考資料
大湯環状列石ガイドブック
世界遺産になった縄文遺跡 岡田康博編 (株)同成社
縄文文化が日本人の未来を拓く  小林達夫 徳間書店

最後までお読みくださりありがとうございました☆彡

この記事が参加している募集

旅のフォトアルバム

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?