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世界遺産になった縄文遺跡群を廻る旅 スタートは三内丸山遺跡 から(1)

2021年7月に北海道・北東北の縄文遺跡群が世界文化遺産に登録されたことは、皆さんの記憶にも新しいことと思います。
縄文ファンの私はかねてより行く機会を伺っていましたが、ようやくこの10月の三連休に青森県の5遺跡を訪れることができました。

北海道・北東北の縄文遺跡群とは、北海道、青森県、岩手県、秋田県の17遺跡からなります。
今から約15.000年前の縄文時代の始まりから、約2,400年前までの終焉までの長きに渡った縄文時代を、各遺跡を廻ることでほぼ全体を体感できます。

「北海道・北東北の縄文遺跡群を廻る旅」始めます!

広い地域にまたがる17遺跡を何度かに分けて旅をしながら、一万年以上続いた縄文時代を行ったり来たりと楽しむ予定でいます。
その都度その時代にワープして、遺跡や出土した遺物を通して、その場所で暮らした縄文人の生活の様子や精神世界をお伝えしたいと思っています。

スタートは日本を代表する
 「三内丸山遺跡」から

江戸時代から知られている日本を代表する三内丸山遺跡は、青森県の陸奥湾をのぞむ丘陵地に立地する大規模な集落跡です。
縄文時代前期から中期(今から約5,900年前から4,200年前)にかけての約1.700年ものあいだ営まれた集落からは、たくさんの竪穴建物跡をはじめ膨大な遺物が出土しました。

晴天の大空を仰いでいるような「大型板状土偶」の歓迎を受け、いざ三内丸山遺跡へ。
「大型板状土偶」は「ムンクの叫び」とも呼ばれる、高さ32.5㎝のこの遺跡を代表的する土偶です。

ロータリー前
地層の間に土器の破片があるモニュメントは、
後述の「盛土」を表しています。

左奥の地層を模した壁の奥に、遺跡が広がっています。
遺跡へは右手のエントランスから、チケットを購入し入場してから入ることができます。

コンベンションセンターのような大型施設。
朝一番で訪れたので人影もまばらです。
ロビーには高さ3~4mもありそうな、
この遺跡から多く出土した
円筒土器の巨大モニュメントがあります。
建物は馬蹄形で、
ぐるりと一周すると遺跡~展示室まで
全工程を廻れるようになっています。
入場した後、ロビーから緩やかなカーブの
壁面オブジェを見ながら進みます。

まず「縄文シアター」で遺跡の紹介を観たのち、いよいよ遺跡へ向かいます。
この「時遊トンネル」は現在と縄文時代を繋ぐ道です。

約5,000年前に遡るトンネルはちょっと幻想的。
こうした演出も楽しい!

トンネルを抜けると、そこは縄文時代!

広い空の下に広大な縄文のムラが広がっています。
その広さは42ヘクタールと、東京ディズニーランドの51ヘクタールをひとまわり小さくした規模にも及びます。

とにかく「広い~!」
遮るものは何も無く、ムラ全体が見渡せます。

この遺跡は青森平野に臨む丘陵地に位置し、北側には川があり海までも近く、主に狩猟採集が生活の糧であったが縄文人にとって理想的な場所であったようです。
全盛期の「縄文時代中期頃」には、東と南に向かう幅約10mもの道路を軸にムラが構成され、道路沿いには掘立柱建物や墓が並んでいました。

再現された大きな道とそこから繋がる集落。
「大型掘立柱建物」が左奥に見えています。

大通りをだいぶ歩くと、ようやくムラの中心地近くに来たようです。
空がどこまでも広く、忙しく動く雲の様子が手に取るようにわかります。

左「大型掘立柱建物」中央「大型竪穴建物」右「掘立柱建物」

「大型掘立柱建物」

とにかく想像以上に大きい!
高さ14,7mの建物は、太さ1mのクリの柱で組まれています。
建物の用途としては、天文台や祭祀施設、物見やぐら、灯台、モニュメント等と様々な説があります。

上に登ればかなり遠くまで見渡せそうな「縄文タワー」

柱と柱の間隔はどれも4.2m×4.2mと統一されており、この時代に既に「長さの基準」があったことを示しているようです。
同様の建物跡は10棟以上見つかっていて、少しづつ場所を変えながら、一時期に1棟づつ建てられたそうです。

この太くて長いクリの柱は、
切り出すだけでも相当困難であったはずです。

「大型掘立柱建物」の実際の建物跡が残されています。
直径1mの柱を立てた穴は、最大で直径2m、深さ2mと巨大で、土を少しづつ叩き固めて柱を固定したと考えられています。

巨大な穴を掘るには、
どれほどの時間と労力を費やしたのでしょうか。

「大型竪穴建物」

地面を掘り下げて床を作る竪穴建物の中で、長さが10m以上のものを「大型竪穴建物」と呼んでいます。
この遺跡からは、最大で長さ約32m、幅約10mのものが見つかっていて、「平均的な竪穴建物の20倍もの広さ」であったと考えられています。

通称ロングハウスの建物跡は、
全部で13棟確認されています。

地面より下がった大空間には大きな炉が設けられ、集会所や共同作業所、共同住宅などの役割をしていたと考えられています。

掘り下げて作られた空間は、
天井も高く開放感があります。

「掘立柱建物」

通常サイズの掘立柱建物は、集落の中心や墓などの特定の場所に規則的に密集して発見され、これまでに100棟以上が見つかっています。

6つの柱からなる長方形の建物は、
柱の間隔が35㎝の倍数であることが多いそうです。

食料の貯蔵用倉庫として、また墓の近くから見つかっていることから死者の安置所であった可能性も考えられるそうです。

内部は明り採りもなく暗く、簡素な作りです。

竪穴建物

やや高くなっている場所に、小さな竪穴建物が設けられています。
楕円形をしたものが多く、長さ4m、床面積10㎡ほどで、4~5人で暮らしていたと考えられています。

秋の野草が咲く穏やかな丘に建つ住居。
当時もこんな景色が見られたのでしょうか。

これまでに全部で600棟以上の住居跡が確認されています。
最盛期には多くの建物が建てられたことから住居域が広がり、集落が大きくなっていったそうです。

お隣さんとの距離は案外近かったようです。
竪穴建物の屋根は茅葺説と土葺説がありますが、
この建物は土葺屋根です。

北の谷

遺跡の北側を流れる川へと続く谷は、集落のゴミ捨て場として様々なものが捨てられていました。
この谷には湧水があるために、動物の骨や木製品、漆器などが水分で保護され、腐らずに良好な状態で見つかりました。

通常は腐って残らないものが多く出土し、
当時の環境や食生活の様子を知る資料となっています。

盛土

「盛土」とは、土砂などが長年の間繰り返し捨てられ、小さな丘のようになった場所です。

ここの盛土は、高さは最大で約2m、道路や建物を作る時に出た土などが積み重なっているとされています。
多数の土器や土偶、装飾品などが見つかっていることから、単なる土砂などの捨て場ではなかったと考えられています。

地層の間には土器片などが見え隠れしています。

この他に、大人用と子ども用に別々に作られた「墓」、食料の貯蔵施設であった「貯蔵穴」などを見て廻ります。

縄文時代の大集落であったムラは、周辺の集落からも人々が集まる場所であり、今で言えば大都市で流行の発信地でもあったようです。
また交易の場として、遠くから来た人々を迎き入れる開かれたムラとしても発展したようです。

まるごと縄文の生活が整った、まるでタイムカプセルのようなムラに、気分はすっかり縄文人。足取りも軽く、ムラの中をあちらこちらと歩き廻りました。

充分に縄文気分を味わったら、再びトンネルを通って、現代へと帰ることにします。

現代への道

次回は、この巨大な遺跡から出土した遺物の眠る展示室へとご案いたします。

*参考図書
三内丸山遺跡ガイドブック 三内丸山遺跡センター
世界遺産になった!縄文遺跡 岡田康弘 (株)同成社

最後まで読んでいただき有難うございました。

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