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名もなき男の英雄譚 『インサイド・ルーウィン・デイヴィス』

『一番好きな映画』を選ぶとなると、古今東西ありとあらゆる映画を見尽くしてきたわけでもないので、その時々での自分の中での一番の作品、特にそれが会話のネタともなるととにかく語りやすい作品を適宜建前として用意してしまう。

東に荒唐無稽なアクション大作が好きという人あらば、西に珍妙かつ難解なアート作品が好きという人もいるわけで、「好き」一つとってもそこには人間の色々な感性が垣間見える。
かく言う自分はモラトリアムの渦中にいて、自意識だけが肥大化した"名もなき"人間なので、「好き」の尺度には常に「自分/人生」が中心にある。

コーエン兄弟監督作の『インサイド・ルーウィン・デイヴィス』(2014) は、オスカー・アイザック演じる主人公ルーウィン・デイヴィスの散々な一週間の旅路を描く作品。当時実在したフォークシンガーのデイヴ・ヴァン・ロンクの自伝にインスパイアされたという本作、邦題にはこのような副題が続いている。『名もなき男の歌』。同じく名もなき人間である自分のみっともない人生に深く刺さって抜けない、本当の意味で「好きな作品」はおそらくこの作品だと思う。

舞台は1961年のグリニッジ・ヴィレッジ。ルーウィン・デイヴィスはソロのフォークシンガーとしてギグで演奏を披露しては日銭を稼ぐ日々。ソロアルバム『Inside Llewyn Davis』は売れず、友人の家を転々とする完全なるそのひぐらし状態。かつての相棒マイクの喪失を抱えたまま、自身の消えかかっている音楽への情熱の残り火を頼りにするかのように、シカゴのゲート・オブ・ホーンに自身を売り込みに行く…。というのがあらすじ。

コーエン兄弟といえば『ファーゴ』(96) や『ノーカントリー』(07) で知られる監督で、犯罪や殺人といった物騒なジャンルを扱う割には意外にもほとんどの作品の軸には「コメディ」が据えられている独特な作風がある。個人的にコーエン兄弟作品といえば『ビッグ・リボウスキ』がベースラインにあるため、シュールなコメディが淡々としたトーンで流れていく作風にすっかり虜になっているのだが、この『インサイド・ルーウィン・デイヴィス』もその例に漏れず、哀愁漂うシネマトグラフィーと劇中歌として流れるフォークソングの数々のなかに、陰鬱かつユーモラスな会話劇と演出が光る。

しかし、本作が非常に優れているのは全体の演出テンションだけではない、プロットである。しかもその下地にあるのは極めて古典的なプロットだ。『インサイド・ルーウィン・デイヴィス』は売れないフォークシンガーのうだつの上がらない一週間の漂泊の物語の中に、一人の男が喪失を受け入れ情熱を取り戻す過程を描き、人生を、そしてただの1人の人間を肯定する力を持っている。

この作品では主人公ルーウィン・デイヴィスの心情が明確なアナロジーによって語られる。「猫」である。"A folk singer with a cat" 作中ルーウィンはそのように揶揄される。

猫とルーウィンの関わりは本作序盤のコメディ演出に一役買っている。居候先からお暇する際にドアからすり抜けてしまった猫と、それを抱き抱えどうしようもなく呆然とするルーウィン。ひとまずこの彼の運の悪さが作品序盤のユーモアを牽引する。

しかし中盤、彼のかつての相棒マイクが自殺したことがそれとなく仄めかされ、ルーウィンが明らかにマイクの喪失を彼の中で処理しきれていないことが描写される中で、何度も逃げられその度に大事な会話を遮ってでも追い求めるこの猫の存在が、ルーウィンにとっての「音楽への情熱」そのものであることがわかってくる。

作中終盤、シカゴからの旅路を終え、グリニッジ・ヴィレッジに戻ってきたルーウィンは最初の「猫」と再会し、その名前をようやく知る。猫の名は「ユリシーズ」だった。

ユリシーズは、ギリシャ神話の英雄オデュッセウスの英語名であるばかりか、かの有名なホメロスの叙事詩『オデュッセイア』の主人公の名前でもある。ここで本作のプロットの核がかなりわかりやすい形で示される。オデュッセイアにおける故郷を離れ、長い放浪の末にようやく我が家へと辿り着く「永劫回帰」のテーマは、今作インサイド・ルーウィン・デイヴィスにも通底する。

コーエン兄弟監督作品ではしばしばプロットにアナロジーが巧みに用いられる。『赤ちゃん泥棒』(87) における赤ちゃんや、冒頭の『歓喜の歌』から読み取れるキューブリックへのオマージュといったように、描いている事象や人物が、それそのままの意味を持たないのが特徴だ。

今作インサイド・ルーウィン・デイヴィスはそのアナロジーがかなり明示的であったように思う。冒頭、逃げ出した猫を保護していると飼い主の大学教授に知らせるシーンでは、電話の向こうのアシスタントに"Llewyn has the cat." を "Llewyn is the cat." と言わせている他、先ほどの猫の名前「ユリシーズ」もルーウィンがこれでもかと大袈裟にリアクションを取ることで、「この物語は『オデュッセイア』だったのか…!」と観客の取るべきリアクションを見せている。
(とはいえ、そのすぐ後のシーンでルーウィンが『三匹荒野を行く』(61) のポスターを眺めるシーンがあり、「こっちかい!!」と突っ込みたくなるような意地悪な仕掛けもあるのだが。)

インサイド・ルーウィン・デイヴィスはオープニングシークエンスとラストシークエンスが円環する形で幕を閉じる。紆余曲折を経てオープニングと同じく再びギグで演奏を披露するルーウィンだが、作中一貫して一人では歌うことのなかったマイクとのデュエット曲 "Fare Thee Well" をソロで披露する。旅路の果てに、自身の魂を象徴する猫が傷つきながらも一人歩く姿を見たルーウィンは、自身のあるべき場所、マイクと紡いだフォークの魂に帰還したのだ。

そしてラスト、オープニングシークエンスのラストにも登場した「スーツの男」に同じように殴られるルーウィン。男は言う「女房を馬鹿にするな」「こんな街はくれてやる」。彼はもしかすると、ルーウィンと共に音楽を、フォークを愛した「マイク」だったのかもしれない。車で去っていく男にルーウィンは最後、「あばよ」と告げる。ルーウィンはようやく、マイクに別れを告げた。こうして映画は幕を閉じる。

映画全体の雰囲気と、作中のルーウィンの気怠い一挙手一投足からは想像もできないほどにこの映画には熱く、そして屈強な意地が込められている。どれだけ惨めで情けなくとも、どれだけ迷走しようとも、最後にはその放浪の果てに情熱を取り戻すことができる。たとえそこがどれだけshitty showだとしても。

どうしようもない人生を肯定してくれる英雄譚である。

(本作以上にサントラに夢中になる映画もそうないと思うので、音楽、とくに劇伴好きとてもオススメ)

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