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9月5日

2018年8月。18年勤務したアメリカの会社でリストラされた私はしばらくは思い切り遊ぼうと心に決めた。仕事も落ち着いたら探そうと自分に言い聞かせて。それまではバケーションにはもれなく会社のラップトップと携帯がついてきた。日本帰省中でも部下から『処理できないのでフォローお願いします。』と言うような連絡が度々来たこともあった。昨日書いた日本の友達がサンフランシスコに来る前にもう一つ忘れられない北海道での思い出がある。

アメリカから日本へ飛ぶとその系列航空会社で日本国内はどこでも格安で飛べるというのを知り、帰省中に北海道の友達に会いに行くことにした。とにかく遊ぼうキャンペーン中だった私は1泊2日で北海道へ行き、名古屋に一泊した後に福井へ行くつもりだった。福井行きの荷物を名古屋で一泊する駅前のホテルに預けてからウキウキと千歳へ飛んだ。短大時代に4泊5日の旅行で北海道に行って以来だ。到着すると頼みのJRが確か数日前の大雨か何かの影響で運休でバス乗り場には人があふれかえっていた。そこまでは調べていなかった。夕方には遠い街に住んでいる友達がホテルに来てしまうので焦る。バスはどう考えても乗るまでにかなり時間がかかりそうだ。とにかく札幌に行こうとかなり並んでタクシーに乗った。親切なドライバーのおじさんがバスより料金がかなりかかりますよと言われたが時間がもったいないし、友達を待たせているのでと便利そうで選んだすすきの近くのホテルへ向かってもらった。途中、話がはずんでおじさんが道を間違えたりハプニングもあったが無事に到着。友達にも会えて念願のお寿司屋さんへ。

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ビールで乾杯して美味しいお魚やお寿司を頂いた。すっかり盛り上がり、すすきのの街を散策して念願のザ ニッカバーへウィスキーを飲みに行った。落ち着いた大人の店でおばちゃん二人が楽しくハイボールを何杯か飲んで締めはラーメンとアイスクリームかしらなどと言いながらバーを出た。時計が12時なのに外はまだまだ行き交う人たちでいっぱい。なんて活気がある街なんだろう。アメリカと違い、日本は朝までお酒を飲みに行ったりできるのだが大人の階段を下り始めた私たちは、20代30代の時のようにはいかない。コンビニでアイスとお水を買ってホテルに戻った。お喋りしながら交代でシャワーも浴びて夜中2時前には寝たと思う。その1時間後、カタカタと物音で目が覚めた。まだ新しいホテル最上階12階の部屋がグルングルンまわっている。友達もびっくりして起きた。ここ最近、アメリカで経験した地震は直下型なのでドーンという縦揺れの衝撃が一瞬なのだがこれは最初何が起きているのかわからないくらい建物が激しく円を描くように揺れた。かなり長い時間揺れた様に思えた。「ええー何これ」すっかり目が覚めた。廊下で人の声がする。まずは起きたことを理解しようとテレビをつけたりしたがしばらくすると真っ暗になった。完全に停電だ。「大丈夫?」「怖かったねえ」お互いに声をかけあう。一人じゃなかったことが本当にありがたかった。空が明るくなってきたが電気が戻らない。トイレはこの時点でまだ問題なかったので交互に利用した。予定では今日も少し観光してまた美味しいものを食べて千歳から夕方のフライトで名古屋に戻る予定だった。夜中の3時過ぎから余震もずっと続いていたので睡眠不足で頭がまわらない。とにかく外の様子が知りたい。何か食べるものも必要だ。フロントデスクに電話しても繋がらない。ホテルは朝食付きだったことも思い出して1階に行ってみることにした。停電なのでエレベーターは使えない。非常階段は外にあるまるでアクションムービーで出てきそうな鉄パイプの階段。よく逃げようとした犯人か追手が下に落ちたりするやつ。下がまる見えなので恐る恐る友達と手すりにつかまりながら下りて行く。20階とか30階とか高層でなくて本当に良かった。下に行くとやはり様子を伺いにたくさんの泊まり客がロビーにいた。停電のために朝食はご用意できませんという案内を聞いて友達と近くのコンビニにすることにした。外に出るとホテルのすぐそばのまだ新しいお店のショーウィンドーが粉々になっていた。「昨日あのまま夜中フラフラしていたら怪我してたかもね」と言いながらコンビニに到着するとおにぎりやパンはすでに売り切れていた。日本のコンビニで棚が空というのはあの時以外見たことがない。とりあえずお水、飴を買った。これは大変なことが起きたんだとやっと状況がわかった。停電なので現金しか使えないと言われた。また鉄パイプの階段をドキドキしながらやっとこさで登り、まず部屋から航空会社に電話した。なかなか繋がらない。良かったことは携帯の充電バッテリーを持っていたこと。携帯でニュースを検索すると震度7の大きな地震だったことが出ていた。ホテルの廊下では誰かの怒鳴り声がする。ホテルの従業員に文句を言ってるようだ。私は今日は移動できないことが確定したのでフロントデスクに今後のことを聞きたいが電話は繋がらない。また鉄パイプの階段を下りて1階まで行った。大げさでなく余震も続いていたので12階から階段を下りる時は命がけだった。フロントデスクの人も色々な対応に追われているようだった。本当ならチェックアウトの時間だが今日は移動できないのでまだ滞在できるか聞いてみた。「清掃など通常の対応はできかねますがそれでも良ければいて下さっても構いません。」というありがたい回答だった。ダメもとでもっと下の階の部屋に移ることは可能かと聞いたらそれは無理と言われた。電気が戻るまではあの鉄パイプの階段をスタントマンの様に上り下りするしかない。

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友達は今日はバスも電車も運休で家に戻ることができないと家族に連絡をした。私は明日から行くはずだった福井の友達にLINEでメッセージを送った。『大変なことになっちゃって。明日は行けないと思う。』友達が『大丈夫?今どこ?』私がとりあえず動ける様になるまではホテルにいられることを伝えた。心配かけてごめんねと謝る私に友達が『最初びっくりして心配したけどポケモンGOの履歴あったからそんなに心配してなかったよ。』ポケモンGOアプリは生存確認もできる。その日は丸一日停電だった。時折、同じ階の宿泊客が怒っているのが聞こえる。怒鳴ってもどうしようもできないのに。私たちはとりあえずネットでニュースを読み、体力を温存しようと水と飴を食べつつベッドの上でゴロゴロしていた。廊下で出会ったお向かいの部屋のご家族が岩手からいらしていて千歳空港が閉鎖なので帰れなくなったと言っていた。ニュースを見たアメリカの友達からも心配して連絡が来た。

余震はまだ忘れた頃にあったが2日目にやっと電気が復旧した。いろいろやっているうちになんとかその翌日の午後の便に予約変更ができた。空港が復旧すれば良いのだがとりあえず少し状況が前進してほっとして1階ロビーに行った。いい匂いがする。紙コップで豚汁がふるまわれていた。ホテルもスタッフが交通手段がないので来れず、ご飯などは今日も用意できないがせめてもということだった。こんな大変なことが起きているのにホテルに残っている何人かのスタッフが私達宿泊客のお世話をしてくれてありがたいと思った。その時の豚汁の味は一生忘れないと思う。私は最初の一泊分はすでに支払ったが昨日と今日の宿泊レートを知りたいと何度かフロントデスクに聞いたがその都度待ってほしいと言われた。電気が戻ったので友達とホテルの周りを歩いてみた。なぜかドラッグストアは開いていてたくさんの観光客が買い物をしていた。不思議な光景だった。買い物客に混ざって私も友達も親が年老いているので首から下げる懐中電灯を買った。今回の経験でいろいろ考えさせられたからだ。ふと見るとラーメン屋が開いているのに気づき友達と入った。昨日は水と飴だけで今朝は豚汁のみで空腹だった私たちはラーメンと餃子を頼んだ。店員さんが一人で全部やっていて大変そうだった。時間はたっぷりあるので友達と話しながらラーメンと餃子をゆっくり待った。その後も散策し、少し気分も落ち着いた私達は夜はジンギスカンをと話していたがどこも震災後にかかわらずどこも満員。私たちはホテルのそばに開いている居酒屋を見つけてそこでホッケなどを食べた。翌朝はとりあえず札幌駅に行こうということになり、ホテルのフロントに延泊分の精算をとお願いすると今回は無料と言われた。ニュースでは空港の床に泊まり込みの人々もいると流れていたので地震発生後もあのまま滞在させてもらい本当にラッキーだった。ホテルの人にお礼を伝え、歩いて駅に向かった。

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幸い、JRも千歳までは復旧することがわかり私は電車で千歳を目指すことにした。友達はタクシーかバスで帰れそうだから大丈夫と言われ札幌駅でお別れした。まだ早い時間にもかかわらず、その日から復旧した千歳空港を目指す人で電車は満員だった。空港に着くと足止めされていた乗客でものすごい光景だった。床に毛布を敷いて寝ている人もたくさんいた。私はまず乗るはずの航空会社のチケットカウンターで30分並んであげく私の予約はここではなくあちらへと案内され、そこでもさらに30分並びまたどこかへ追いやられそうになった。みんな大変な時だからあまりクレームもしたくないが予約番号はちゃんとあるしどうしようと困っている私を見て係員がお客様こちらへと案内された。そこは荷物も預けてセキュリティチェックも一瞬で終わるどこでもドアの様な特別なカウンターに連れて行ってくれた。私のチケットはそこを利用できる様なランクではないのだがお言葉に甘えて通過させてもらった。搭乗口付近でお土産でもと思ったがほとんどの土産物店が閉店でバター飴しか売っていなかった。やっと満席のフライトに乗り込み名古屋へ向かうことができた。あれから2年。書きながらいろいろ思い出すと震災の後にもかかわらず北海道の人々はみんな優しくておおらかだった。観光こそできなかったが一生忘れることのない3日間だ。それ以来、携帯の充電バッテリーと水と飴は出かける際に絶対持ち歩くことにしている。ホテルもあまり高層階ではなく下の方でとお願いする様になった。私は怪我もせず無事に過ごせたがこの震災でも沢山の方がお亡くなりになった。心からご冥福をお祈りします。

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