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あたりまえすぎる、ローマ哲学者の仕事観(前編)

政治家&哲学者、

ルキウス・アンナエウス・セネカ(前1(4とも)-後65)。哲学者は仕事なんかしない?と思いきや、バリバリに政治の中枢で陰謀の海を泳いでいた人。少し時代が下ると、哲人皇帝といわれたマルクス・アウレリウスも、ストア派です。

ストア派のライバル、エピクロス派は「隠れて生きよ」をモットーとし、小さな共同体の中での生活を推奨した。これに対して、ストア派の哲学においては、仕事それ自体は善とも悪とも言えないが、国家共同体・世界の発展に寄与することは人間の義務の一つであった、とのこと。

ガチの政治家でもあるセネカ師匠は、著作『心の平静について』(岩波版。光文社の新訳は『心の安定について』)で、仕事をするときになにに気をつけるべきかを書き残してくれている。

【1/3】 われわれ自身の問題

何よりも肝要なのは、自分自身を評価することである。
およそわれわれは自己の能力を実際以上に過大評価しがちなものだからである。

己を知れ、とは、かの孔子先生もおっしゃっていますね。自己分析だいじ。
ここで、政治家に向かない人の例として挙げられているのは以下のような人々。

・弁舌に自惚れて身を滅ぼす者
・分不相応な散財をする者
・虚弱な身体に過酷な務めを押しつける者
・内気なため政治には不向きな者
・強情さが宮廷では通用しない者
・怒りを自制できず軽率な暴言を吐く者
・機知を抑制できず身の危険を招く毒舌を抑えられない者

こういう人は、静かにしていたほうがいいよーとセネカ師匠は言います。こんな人、実際に当時、ローマの元老院にいたんでしょうね。向き不向きを考えるべしと。


【2/3】 われわれが取り組もうとする仕事の問題

次には、われわれが取り組もうとしている仕事を評価し、その内容とわれわれの能力とを比較してみなければならない。
行為者の能力は取り組む仕事が必要とする能力を常に上回っていなければならないからである。

「担い手の能力を超えた重荷は、必然的に担い手を押し潰してしまう。」たしかに。

その他、
・次から次へと用事を運んでくる、多産な仕事(種々の新たな雑用が生まれる)
・自由に撤退することが許されないような仕事
も、避けるべきと書かれています。

これを、ローマ帝国で、皇帝に次ぐ地位の執政官(コンスル)やりながら書いていたセネカ師匠もちょっとどうかと思いますが…。

執政官なんて、まさに避けるべき仕事じゃないのかしら。だから実態と著作物が違い過ぎるヤバイやつだと思われて、同じストア派のキケロ先輩やマルクス・アウレリウス君より人気ないんですよ、師匠!

実際、政治家のセネカと文筆家のセネカ、別人説もあったらしい。いまは、著作で自己イメージをロンダリングしようとした説が濃厚で、そういうところもわたしはとても好き。とくに晩年の『倫理書簡集』がとても良いです。

では、続きの【3/3】(誰のために、あるいは誰とともに仕事をするのかという問題)は、後編にて。
職場のトラブルってほぼ人間関係ですよね〜。
ではお元気で。

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