死について考察する1/n(生の短さ) : わんだろうより、親愛なるセネカ師匠へ
セネカ師匠の著作で、有名どころといえば『人生の短さについて』でしょうか。
すごくざっくり言うと
「人生は短い短いって言うけど、それはアンタが無駄遣いしてるからやわ!」
という内容です。(ざっくりすぎて怒られそう)
ほかの著作『倫理書簡集』にもいろいろとグサッとくるお言葉があり、たとえば、最初の手紙はこのように始まります。
セネカより親愛なるルーキーリウスへ
わがルーキーリウスよ、君がなすべきことを言おう。それは君自身の権利を護ること、これまでに奪い去られたか、くすね取られたか、あるいは、こぼれ落ちたかした時間をかき集めて守ることだ。
君が心得るべきことを次に記す。私たちの時間はときに奪い取られ、ときに削り取られ、ときに流れ去る。だが、もっとも恥ずべき損失は怠慢のせいで起きるものだ。
それに、君がよく注意しようと思っていても、人生はこぼれ落ちる。大部分はなすべきではないことをしているあいだに、もっとも多くは何もしないあいだに、全人生は筋違いのことをしているあいだに。
誰か知っているなら教えてほしい。誰が時間にそれだけの価値を認めているか。誰が毎日の価値評価をしているか。自分が一日一日と死につつあることを誰が理解しているか。実際、私たちの勘違いは私たちが死を遠くに見ていることにある。だが、その大部分はすでに過ぎ去ってしまっており、通り過ぎた年月はすべて死の掌中にある。
だから、わがルーキーリウスよ、君がなすべきは君が行っていると手紙に記されていること、一時間たりとも無駄に費やさぬことだ。明日を当てにすることを少なくしようとするためには、今日をしっかりと確保しておけばよい。先延ばししているあいだに人生は走り過ぎてしまうのだから。
ぎゃっと叫んで、目と耳を覆って逃げ出したくなりますな。
ほかにも、哲学者であっても、三段論法や詭弁に近いような修辞法にうつつを抜かす輩も、厳しく非難しています。「こんなにも時間がないというのに」と。
さて、生を充実させるには、「死の練習をせよ」「死を軽視せよ」とストア派の諸先輩方はおっしゃいますが…
ぶっちゃけ、死ぬの怖いやん。すごく。
現代日本の哲学者、中島義道先生も、
「渋谷のスクランブル交差点で群衆を見て、この中の誰一人として100年後には生きていないのだとゾッとした」ということを書かれています。
これって、セネカ師匠が約二千年前に書いてるのとほぼ同じ!!
「倨傲きわまりない人物であったペルシア王は(略)雲霞のごときその(大軍の)精鋭といえども、百年もすれば誰一人生き長らえている者はいないという感慨にかられ、はらはらと落涙したという」(『生の短さについて』)
というわけで、ストア派見習いを自称するからには、いやべつにそうじゃなくても、いま現在生きている人は、だれしも生と死の二分性を避けては通れないのである。である。が。
この、偶然投げ込まれた世界から、またいつか(それは今すぐかもしれない、いつか)突然引き離される「わたし」はどうすればいいのか。
ここから、今までは遠巻きに見ていた「わたし(一人称)の死」の話題に挑みたいと思いますが、長くなるかもなので、「2/n」以降に続きます。お元気で。
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