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3分で人物史 | 《第2話》ロマノフ朝ラストエンペラーの母 - マリヤ・フョードロヴナ


北欧の小国デンマーク王家の分家に生まれたダウマーは、決して裕福な暮らしでは無かったものの家族仲の良い幸せな生活を送っていました。

そこへ突如父親がデンマーク国王の座を継ぐ事に。

次期国王の娘として、ロシア皇帝を擁するロマノフ家から婚約の申し込みが入ります。



17歳のダウマーの元を訪れたロシアの皇太子 ニコライ・アレクサンドロヴィチとはとても気が合ったようで、2人は意気投合。

このまま幸せな結婚をすると思われたダウマーの元に突然、婚約者ニコライ・アレクサンドロヴィチ病死の知らせが飛び込んで来るのでした。

↓前回のお話、詳しくはこちら↓

◆2度目の婚約

思いがけず婚約者を亡くしたダウマーは悲しみが止まりません。
両親も慰めようがない状態でした。

そこへ、元婚約者の父から手紙が届きます。
それは今でもあなたをロマノフ家の一員と思っている、よければ亡くなった婚約者の弟の妃に…と言った内容でした。

このように婚約者に不幸があった場合、代わりにその兄弟姉妹と…と言うのはそんなに珍しいことではありませんでした。

ダウマーは亡くした婚約者を思うとこの申し出に気が進みませんでしたが、当時貧しい小国だったデンマーク王室にこれほどの良い話はありません。

諦めかけていた大国ロシアに嫁入りすれば、デンマーク王家の地位も急上昇というもの。

先にイギリス王室に嫁いでいた姉の勧めもあり、ついにダウマーはこの縁談を承諾したのでした。

ダウマー18歳の時、元婚約者の弟アレクサンドル皇太子と対面しました。

さすがに前回のように初めから意気投合、という訳には行かなかったようですが、2ヶ月後にダウマーはロシア皇太子妃として嫁入りしていくのでした。

(ダウマーとアレクサンドル皇太子。
ちょっとよそよそしい感じ?)



ここでダウマーはプロテスタントからロシア正教に改宗、名前もロシア風のマリヤ・フョードロヴナとなりました。
ここからはマリヤ呼びで話を進めます。

◆ロシアへの嫁入り

(サンクトペテルブルクの冬宮殿。
by Florstein, CC BY-SA 3.0
Wikimedia Commons )


煌びやかなロシア宮廷での生活は、デンマークのそれとは全く異なるものでした。

婚礼の際身につけた宝冠やアクセサリーにはずっしり重い宝石が散りばめられていました。

これらの宝石は、合わせて25〜30kgもあったそうです。

(1866年、マリヤの結婚式)


そんな訳で生活様式が一変したマリヤでしたが、ロシア宮廷でも幸せな暮らしを送っていました。 

(ロシア宮廷の人達と。前列中央がマリヤ、左が夫)


嫁姑関係は良く、夫も非常に妻を大事にするタイプでした。

その様子は、兄の死によって繰り上がりで結婚したとは思えないほど。

◆出産と豪勢な暮らし

マリヤは20歳で長男(後のニコライ2世)を出産し、合わせて6人の子供を産みました。

第一子: 1868年5月18日 ニコライ(長男)
第二子: 1869年6月7日 アレクサンドル(次男・1歳で早世)
第三子: 1871年5月9日 ゲオルギー(三男)
第四子: 1875年4月6日 クセニア(長女)
第五子: 1878年12月4日 ミハイル(四男)
第六子: 1882年6月13日 オリガ(次女)

(第一子ニコライとマリヤ)


長男ニコライ・三男ゲオルギー・長女クセニアと


この頃のマリヤは、休暇は毎年のように仲よしの姉・アレクサンドラとパリで過ごし、2人お揃いの服を作ったり、宝飾店で買い物をしたりしました。

(姉とペアルックで馬車に乗るマリヤ)



またロシア国内も産業革命が進み、鉄道網の発達や石油の産出によって国の領域も拡大。
「地球の6分の1はロシア」と言われるほどの超大国となっていたのでした。

マリヤが嫁入りした1866年のロシア。
濃い緑が領土、薄い緑が勢力圏
Milenioscuro • CC BY-SA 3.0 Wikimedia Commons


しかしその発展の裏で、貧困に喘ぐ庶民の皇帝への不満は高まる一方。
革命の足音が迫っているのでした――。

続きます。



ある人物の死によって、マリヤ一家の暮らしが揺れ動きます。

↓続きはこちら↓

参考

残酷な王と悲しみの王妃 2 (集英社文庫)

Russia Beyond
Wikipedia 日本語

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