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3分で人物史 | 《第3話》ロマノフ朝ラストエンペラーの母 - マリヤ・フョードロヴナ

19世紀なかば、デンマークから大国ロシアに嫁いだダウマーことマリヤ・フョードロヴナ(マリヤはロシア正教に改宗後の名前)。



政略的な結婚であったにも関わらず、姑や夫に愛され幸福な日々を過ごしていました。

また嫁ぎ先のロマノフ家はヨーロッパ随一の大金持ちであった為、休暇は毎年仲良しの姉とパリで宝石を買うなど、金銭的にも恵まれた生活を送っていたのでした。

(姉とペアルックのマリヤ)


《今までのお話・詳しくはこちら》

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◆国民と王室の格差

この頃のロシア内部はと言うと、長年農奴制により搾取されて来た農民たちの不満が蓄積。


マリアの舅である皇帝アレクサンドル2世は、事態を打開すべく 即位してすぐ「農奴解放」を宣言しますが、その内容は搾取され続けて来た身分にとっては不十分。

皇帝を倒せ、という動きは高まり続けます。



実は、マリヤが嫁いでくる7ヶ月前に皇帝が宮殿で狙撃される事件が勃発。

その後も皇帝は度々暗殺されかけては生き延びる…を繰り返していたのでした。

一方のマリヤはと言うと、結婚後子供にも恵まれ、平和な暮らしを送っていました。

家族仲の良い温かな家庭で育った彼女は、母として実家と同じように平和な家庭を築き、特に息子達はもれなく「ママ大好き」だったようです。

(1880年、マリヤと子供達)



ただこれは舅のアレクサンドル2世が息子家族に過激派の手が及ぶことを案じて、彼らが住むガッチナ宮殿の周りに厳重な警備をしいたからこその事。

(19世紀のガッチナ宮殿)


マリヤも舅の身に何が起こっているか知らないでは無かったのですが、安全な宮殿で幸せな暮らしを送っている限り、国内の危険な動きはどこか現実味が薄かったのでしょう。

◆皇帝暗殺

しかし遂に恐れていた事が起こります。
1881年3月、皇帝アレクサンドル2世の馬車に爆弾が投下。

皇帝はすぐさま宮殿に運び込まれましたが、1時間後に死亡しました。

この爆弾テロによるアレクサンドル2世の崩御を受けて、マリヤの夫がアレクサンドル3世として即位、マリヤはロシア皇后となるのでした。

(↑ややこしくなって来たので作った)


◆新しい皇帝誕生

さて先代皇帝の暗殺成功により、過激派は一旦目的を達成した訳ですが、先述の通り、その息子が次の皇帝として即位。
帝政が即無くなる訳ではありませんでした。

(戴冠式の様子)



当然、新皇帝のアレクサンドル3世と皇后マリヤも命を狙われる危険があります。

マリヤ一家は安全上の理由から、王宮として使われていた冬宮殿ではなく、郊外のガッチナ宮殿に留まり続けることになりました。

◆皇后として、母として

ロシア国民の皇帝に対する思いは色々あったものの、皇后マリヤは宮廷人のみならず国民からも人気がありました。

(1885年、37歳頃のマリヤ)



その美貌や朗らかで気取らない性格、そして短期間でロシア語を身につけたのも好印象だったようです。

マリヤの実家は家庭教師を雇う余裕が無く、基本的に教育は両親が行なっていたそうです。
そんな状態だったので、ロシア語は結婚後に習得したものと思われます。

元々きょうだいの中でも特に読書家で頭が良かったそうです。

夫アレクサンドル3世は 子供達に軍隊式の厳しい教育をしましたが、マリヤはそんな子供達を甘やかす方でした。

(1888年、長女クセニアと)


特に後の皇帝となるニコライ2世はマリヤによく似ていたらしく、殊の外溺愛していたそう。

(1888年、41歳頃。長男ニコライと)


また癇癪持ちの夫アレクサンドル3世と宮廷人との間に入って仲介役を務める事もありました。

そんな訳で、良き母、良き皇后であったマリアなのですが、その円満な生活もいつしか歪みを見せ始めます。


次回は、マリヤ一家を襲った不幸な事故の話です。
そして長男ニコライは外遊先の日本でも事件に巻き込まれ…

マリヤはこのまま完璧な皇后を続けられるのでしょうか?

↓続きはこちら↓

参考

残酷な王と悲しみの王妃 2 (集英社文庫)

Wikipedia: 日本語

YouTube: Scandinavian Royalty


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