見出し画像

5分で人物史 | 《後編》ドイツ最後の皇太子妃 - ツェツィーリエ・ツー・メクレンブルク=シュヴェリーン

画像1

現在のドイツ北部にあったメクレンブルク=シュヴェリーン大公国からドイツ帝国に嫁いだツェツィーリエ。

恵まれたスタイルと容姿ですぐドイツ帝国で人気者になりましたが、やがてドイツ革命が起こり皇帝が退位

画像2



皇帝夫婦とその長男である夫はオランダに亡命しますが、ツェツィーリエは6人の子供達と共にドイツ国民として国に留まる道を選びました。

↓詳しくはこちら↓


プリンセスという肩書きを失くした後、彼女はドイツでどんな生活を送っていたのでしょうか。

◆共和国の下で

画像3

(1914年・革命前のツェツィーリエ、夫、子供達)

1918年のドイツ革命により帝政が崩壊し、「元」皇太子妃として子供達と共にドイツに留まることを決意したツェツィーリエのその後です。
(皇太子だった夫は、両親と一緒に亡命)

㇄ドイツ国民と共に生きる

ツェツィーリエと子供達は、これまで住まいとしていた大理石宮殿から、個人宅であるツェツィーリエンホフに移り、使用人も半分に減りました。

画像4

(ツェツィーリエンホフ宮殿、CC-BY-SA 4.0, Wikipedia )

子供達に家庭教師を付けることもできなくなった為、当時12歳と11歳だった上の息子2人は、近所の学校に通うことになりました。

しかし、ツェツィーリエはその状況を悲観することはありませんでした。
彼女は戦後の困窮したドイツ国民に寄り添い、こう声明を出すのです。

同情する必要はありません。
我々はどんなドイツ人女性にも降りかかる素晴らしい状況下にあり、かつ我々には良きドイツ国民としての子供達の教育があるのです。
- Wikipedia

画像5

(1918年、ツェツィーリエと2人の息子たち)

◆冷えた夫婦仲

ところで、ドイツ帝国が崩壊してオランダに亡命していた夫・ヴィルヘルム元皇太子ですが、革命から5年経った1923年、ドイツに帰国しました。

しかし5年間の別居の間に夫は数々の浮気をしており、夫婦仲は既に冷めきっていました。

それでもツェツィーリエは夫とうまくやっていく道を選びます。

夫はシレジア(現在のポーランド南西部辺り)に居を構え、ツェツィーリエと子供達は引き続きポツダムのツェツィーリエンホフ宮殿に残りました。

そして冠婚葬祭の時だけ顔を合わせる生活だったそうです。

画像6

(当時のシレジア※黄色線内 en:User:Kelisi,
CC-BY-SA-3.0  Wikimedia Commons)

ツェツィーリエは政治には関与せず、数々の慈善団体での活動を続けました。

しかし、ナチスドイツが政権を握ると、それらの団体は解散させられてしまい、彼女は公の場から完全に退く形となります。


夫の帰国から第二次世界大戦までの15年余りの間に、ツェツィーリエの息子たちは全員成人してそれぞれ結婚したり仕事に就いたり。
娘達もそれぞれ学校に通っていました。

1934年6月、47歳の時には初孫が生まれました。

画像7

(1925年頃の家族写真
息子達のスタイルの良さったら!)

画像8

(1934年、初孫を抱く夫ヴィルヘルムとツェツィーリエ。Bundesarchiv Bild 183-R37110 / CC-BY-SA 3.0
Wikimedia Commons)


そしてツェツィーリエ自身はと言うと、音楽にのめり込むようになっていました。

ツェツィーリエンホフで私的な演奏会を開き、すでに有名な、あるいは将来有望な指揮者や若い音楽家たちとの友情を育んだのです。

その中には、のちにNHK交響楽団で指揮をつとめた若き日のカラヤンもいました。

画像9

そんな平穏な日々も、第二次世界大戦によって大きく揺れ動きます。

◆第二次世界大戦の下で

画像10

1939年9月、第二次世界大戦が勃発。
そして翌年、長男がフランスで戦死します。

かつてのドイツ帝国の皇太子の死は、ドイツ国民に大きな衝撃を与えました。

無言の帰国をした彼の遺体がアンティーク寺院へ埋葬された時、道には5万人もの人が詰めかけます。

画像11

(アンティーク寺院、by PaulOdörfer
CC-BY-SA-3.0 Wikipedia Commons)

この元王室の影響力は、当時のドイツ国首相・ヒトラーを大いに震え上がらせたのでした。

長男の死の翌年、今度は舅である(元)皇帝が崩御。
長男であるツェツィーリエの夫ヴィルヘルムが、旧王家であるホーエンツォレルン家の家長となります。

こうなると、当然ヒトラーは君主制の復活を恐れてヴィルヘルムを警戒するようになります。

ツェツィーリエンホフ宮殿は、ゲシュタポの監視下に置かれるようになるのでした

◆再びの別離

1945年1月、ヴィルヘルムは病気の治療のため ドイツ南部のオーベルストドルフに移ります。


そして翌月、58歳のツェツィーリエと次男夫婦はツェツィーリエンホフを離れ、バートキッシンゲンに疎開しました。

これは第二次世界大戦でドイツとの対立を深めたソ連が宮殿近くのベルリンに迫っていた為でした。

画像12


◆バートキッシンゲン時代(1945〜1952年)

画像13

(バートキッシンゲン、ⓒAntarigo,
CC-BY-SA-3.0, Wikimedia Commons )

バートキッシンゲンでは、皇帝の元侍医がツェツィーリエ達に住まいを提供します。

1946年9月には、ツェツィーリエ60歳の誕生日を夫や子供達と共に祝いました。

しかし、戦争は終わってもまた悲劇が続きます。

画像14

(1914年 ツェツィーリエの息子達の小さい頃。
フーベルトゥスは1番下)

1950年、長男に続き三男のフーベルトゥスが病でこの世を去ります。

続いて1951年7月には夫ヴィルヘルムも亡くなりました。

◆晩年

画像15

(Aeriel video capture, CC BY-SA-4.0
Wikimedia Commons)

夫が亡くなった翌年の1952年、ツェツィーリエは住まいをシュトゥットガルトに移します。

同年イギリスを訪問した時は、ジョージ5世の未亡人であるメアリー王太后に迎えられました。

(詳細は割愛しますが、イギリス王室は亡き夫ヴィルヘルム2世の親戚筋にあたります)


またイギリスで結婚した四男フリードリヒを訪ね、孫の洗礼式に参加しました。

画像16




1953年1月には、デンマークに嫁いだ姉の葬儀に参列。この頃にはツェツィーリエも調子を崩し、1954年5月6日、脳梗塞を起こして急死しました。

彼女の亡き夫の誕生日の事でした。

画像17


帝政が崩壊してもなお、国民に寄り添って来たツェツィーリエ。

今でもドイツ国内には彼女の名を残す地名がいくつもあります。
一部ご紹介しますね。

↑ツェツィーリエン広場
右下にツェツィーリエン薬局もあります。


↑ツェツィーリエン学校


↑こちらもツェツィーリエン学校



おまけ

常に国民に寄り添い、慈善事業や女子教育に力を尽くしたツェツィーリエ。

そんな彼女の貼りきれなかった写真を貼ります。
どの時代も意志の強そうなキリッとした雰囲気が印象的です。

画像18

(少女時代のツェツィーリエ・右)

画像19

(1904年、ツェツィーリエ18歳頃)

画像20

(1906年、20歳頃。夫と長男と)

画像21

(1908年、22歳頃の肖像画)

画像22

(1911年、25歳頃)

画像23

(1911年、25歳頃)


画像24

(1910〜1915年、24〜29歳頃。
夫妹・ヴィクトリアと)

画像25

(1918年、32歳頃 6番目の娘と)

画像26

(1933年、47歳頃   Attribution: Bundesarchiv, Bild 183-2003-1014-502 / CC-BY-SA 3.0
Wikimedia Commons)


画像27

(1935年、49歳頃)

参考

Wikipedia 日本語英語

#歴史
#世界史
#ドイツ
#人物史
#世界史がすき

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?