見出し画像

悲しみも抱きしめながら生きてゆく

今、とても安らかで、
「しあわせ」という場所に立っている。


かつてわたしは悲しみに埋もれていた。

「絶望」という場所から抜け出せずに、開きもしない扉をずっとノックし続けた。ノックし続けるたびに、より絶望を強く感じさせた。

「絶望」という場所にとどまることが多くなると、絶望とも仲良くなれた。


救いようのない悲しみ。
闇に吸い込まれそうな孤独感。


絶望とともに生きていると、
それすら安らかに思えるのだった。


✳︎


過去のわたしはもういなくて、絶望的な悲しみや孤独感はもう味わうこともない。

どんなふうだっただろう…と、
その感覚をはっきりと掴めないでいる。

8年前のnoteの「悲しみ」という記事の中で、こんなことを書いていた。

わたしのこころの中に、常に、「悲しみ」は横たわっている。こころの水の一番奥深くに沈殿している。
だからといって、わたし自身は、悲しい人間ではない。すこぶる元気である。しあわせも時に感じる。
では、ずっとこころの奥深くにある消えない「悲しみ」は何なのか。

(中略)

「悲しみ」のまま、
「治ったけど消えない傷跡」のまま、
置いておきたいのだと思う。

もう傷跡すらなくなってしまったのだろうか。


けれど、
あの日のような澄み渡った青空を見たり、
あの頃聴いていた曲に心を漂わせたりすると、
いまだに涙が勝手に出てきてしまう。

悲しみを捨て切ってしまったわけではない。
わたしの一部として生きているのだろう。

時々は、沈殿した悲しみに触れて、その色を確かめていたい。

悲しみも歓びも
結局のところ、
光をかざすと、
どちらも希望の色。

わたしがここまで歩んでこれたこと。

その先々で出会えた人、
出会えた場所、
出会えたもの。

それは言うまでもなく、
絶望的な「悲しみ」のおかげだ。

だから、これからも、
悲しみも抱きしめながら生きていたい。


サポートとそのお気持ちは、創作や家族の居場所づくりのために還元できたらと思ってます。