スランプなんて当たり前
小説家としてデビューして四年。スランプの無い日なんてなかった。
むしろ、小説に限らず25年続けてきた舞台の脚本の執筆だってスランプの連続だった。
舞台本番3日前までラストシーンが書けなくて、バイトの時間が迫り発狂しながら机に向かったこともある。
稽古に1ページしか持って行けなくて、出演者の冷たい視線(そういう風に見えてしまう)に耐えながら稽古をしたこともある。
スランプなんて繰り返しやってくるもんだ。
そして、そのスランプから脱せるのは、いつもひょんなことからだった。
たまたま食べたお寿司が美味かったとか、「はじめてのおつかい」を見て頑張ろうと机に向かったとか、自転車こいでたら書けそうな気がしてきたとか(笑)いつ何時スランプから抜けるのかなんてわからない。
だから最近はスランプに陥ると、一旦、そのやるべきことから離れてみるようになった。昔は台本を書いてる時に他のことに気を囚われでもしたら、その後の自己嫌悪は酷いものだった。
台本が書かずに稽古場に向かう日なんて、マジで情けないやら、申し訳ないやら……
でも、その罪悪感がさらにスランプを長引かせる。ストレスが溜まる。
ストレス状態で良いものなんて書ける訳がない。
それが重なって、僕はとうとう友達に当たり散らすようになった。自分じゃダメだ、情けないと分かっている。でも、イライラは止まらない。
芝居なんて続けてたら、いつまでたってもこの苦しみからは逃げられない。
芝居をやめよう。もう、こんな苦しいことから解放されて、普通の生活を手に入れよう。
そう考える時期があった。本気で芝居をやめると決意して、当時の劇団員に「俺、芝居やめる」と言ったことがある。
当然「なんでやめるんですか?」「やめないでください」と止められるもんだと思っていた。いや、期待していたのかもしれない。
だが、しかし、劇団員から言われたのは……
「はい。わかりました。川口さんの好きなようにしたください」
あっけなく、簡潔なものだった。
でも、これが良かった。
もし、止められていたら本当に辞めていたかもしれない。僕はたぶん(自分で自覚がないのだが)根っからの天邪鬼なのだ。
そして、苦楽を共にした劇団員はそのことを僕以上に知っていた。
僕は2ヶ月だけ芝居をやめて、すぐに復帰した。
その後に書いた舞台の脚本が「コーヒーが冷めないうちに」である。
人生なんて、わからないものだなと改めて実感した出来事である。
クリエイターにとってはスランプもお友達感覚で付き合えばいいのだ。
そう思う。
川口スランプ俊和