2024.4.12(金) 主語の範囲 思い込みの鎖から解き放たれるためには マスメディアの難しさ マイノリティでマジョリティ

ひさしぶりの実家、頭痛。その原因は実家というだけでは無さそうだ。暫くテレビを持たない生活をしていた為、どうしても観たい番組だけ実家で録画してもらっていた。「あざとくて何が悪いの?」は田中みな実と弘中ちゃんが個人的に好きだったので観ており、メインがおふたりから鈴木愛理に変わってもそのまま観続けていた。その過程で鈴木愛理の面白さに気づけて良かったなあと思う反面、なんだか……番組全体に対して 疑問に思うところとか 同意できないところとかも垣間見えてきて、今日、数話観ていてもその感覚は拭えず、観るのをやめることにした。

今まではそんなに観ていて苦しい感覚はなかった。おそらく…の考察になってしまうが、きっと元々のメインのおふたりが、きちんと主語の「自分」を前提に置いて話をしていたからだと思う。あくまで自分の思う範囲のことを深掘っていくような。
こと恋愛や人間の深い所の関わりについて、わたしの持論としては「言いも悪いもない 捉え方と価値観」と思っているので、どんな話をしようが自由だと思っている、それがわたしとは違う考えであっても。だからどんな話であっても楽しく聞くことが出来ていたが、そうはいかなくなってきた。それは番組内で話している内容の主語が どうしてもそれぞれの「自分」ではなく「男」「女」「みんなは」「普通は」というふうになってきたように感じてしまったからだ。
おそらくだけどそれは、新しいメインの方の感じがそうということではなく、番組の構成の仕方がそうなってしまいつつあるのかな、と思う。今までは個性の濃ゆ過ぎるメイン2人がゲストを巻き込み、緊張感のある中でそれぞれに語って居たように思うけれど、今はメインが1人な為、形式上どうしてもゲストと対談する ゲストの価値観を広げて話す みたいな風になってしまう。すると毎回変わるゲストの話している深度によってその番組1回の深度が変わってくるし、ゲスト2人メイン1人の3人の意見が重なった時に、どうしても「わかる!」「やっぱり男は/女はそうだよね」みたいなことになってしまう……。その3人の意見がたまたま合致しただけで、それを全体の総意ですというふうに、語って欲しくはないわね。「わたし達3人はこう思うわ!」だったら全然観られるのだけれど。

こういうちいちゃなひとつひとつが、人々の根深いところに、思い込みの鎖をつけていっているんじゃないかなあ。例えば「女は〇〇するのがモテる」なんていうのは、沢山ある例のなかのひとつであって、それが全てなんかじゃないのに、それを見た人は大なり小なり「そうなんだ!」と思う。そしてたとえば女性側は「そうすればモテる!→女はそうあらねばならない」という強迫観念になるし、そして「そうしたのにモテない!何故!」とかいうことにもなる。男性側もおそらく「世の〇〇な女は魅力的→好きになるべき→それを好きでは無い男は男らしくない」ちょっと言い過ぎだけど、こういった価値観の作られ方は全然あるよね。もう、全部が間違っている。。。

テレビって、難しいな と思ったし、やっぱり観るのに向いてない、と思った。限られた時間の中映像の中でどれだけ「面白く」そして「わかりやすく」するかを求めていくと、どうしても端的なことばには、なるよね。だからそこに 観た ものがその人の全てとは限らないし その番組の全てとも限らない。けれど、そう思ってしまう人が多い気がする。そういう意味でも情報番組とか そういうものをする人々は、本当にすごいと思う。多種多様な捉え方があるなか 意図的に悪意をもって切り取ろうとする力が働くなか 色んな制約のなか 動いているひとたち。私には到底出来ないことだ。到底出来ないけど、出来ないから、せめて受け取る立場であるとき、わたしは色々を慮って選びたいね。わかりやすく加工されたそれが、その全てとは思わないよ。

観るのを辞めようと考えた時一瞬迷ったのは、そういったテレビに出演している人々が言う価値観が、大衆的に受け入れられるものであって、そしてそれが私の中に全然ない価値観だったりするときもあるからだ。それを知ったところで、わたしはそれを取り入れようとするかどうかはわからない、けれど新たに“知る”ことが出来るのは大きい。そして、それはわたしが今どんな立場にいるのかを明確にすることも出来る。
自分が今いる世界が、世界の中心だとは思っていない。自分が今知る限りのことを「これが世間の全て!わたしは間違っていない!わたしは正しい!わたしが言うことは世間が言うことと同じ!」なんていうことは思わないし、きっとこれからも思うことは無い。けれどもそれを 疎外 だとも思わない。
たくさんたくさんある価値観の、全てを知ることは出来なくても、「私の考えだけが中心で 全てで 正しい」と思わないように、価値観が認識できないくらい沢山あることをちゃんと認識しておきたいし、そうして、その中でわたしはどのくらいマイノリティであるのか、はたまたこの局面に置いてはマジョリティであるのか、なんとなくわかってはおくことは大切ではないだろうか。
とまあそんな意味で「この番組は見聞きを広げるひとつとして観続けた方が自己成長のために良いのでは無いだろうか…………、」「……いや、疲れちゃうからやっぱ観るのやーめよっと」とそんな感じで手放すことにしました。まあ、観るのをやめても、大丈夫でしょう。ちゃんとそういう事は認識しているし、むしろ精神衛生上宜しくなく、また モヤッと 又は ピリッと する価値観に触れ続けることでそれに対する苛立ちを産んでしまってはよくない。みんなちがってみんないいんですから。きらいに むりに なってしまう前に 適切に距離を置く。これ大事。心地よい場所が大好きだ。

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