自分の目で人物を判断する
(書き下し文)
子(し)、公(こう)冶(や)長(ちょう)を謂(い)う、妻(めあわ)す可(べ)きなり。縲絏(るいせつ)の中(うち)に在(あ)りと雖(いえど)も、其(そ)の罪(つみ)に非(あら)ざるなりと。其(そ)の子(こ)を以(もっ)て之(これ)に妻(めあわ)す。子(し)、南容(なんよう)を謂(い)う、邦(くに)に道(みち)有(あ)れば廃(はい)せられず。邦(くに)に道(みち)無(な)きも刑戮(けいりく)より免(まぬか)ると。其(そ)の兄(あに)の子(こ)を以(もっ)て之(これ)に妻(めあわ)す。
(現代語訳)
孔子様が公冶長を評して、「あれなら娘を嫁にやってもよろしい。入(にゅう)牢(ろう)したこともあるが、無実の罪だったのだ。」と言われ、自身の婿(むこ)にされた。また南容を評して、「あれは慎(つつし)み深い男だから、治まった国なら任用されようし、乱れた国でも刑罰にあうようなことはあるまい。」と言われ、兄さんの娘を嫁にやられた。
(思いや学び)
昨今の情報化社会においては、益々人を見る目を養う必要がある。
というのも、対面で人を見る機会よりも画面上で人を見る機会のほうが多くなったからである。
画像や動画に収めたその瞬間から情報は時を止めてしまうのですが、人は変化し続けます。ここに教育の真髄が凝縮されていると思っている。
私はこれを体現する第一人者でありたいと常日頃から思っている次第です。
SNSばかり見ていると、そのファクトを忘れがちになる。
これが情報化社会における産物の副作用であると思っている。
上記のような背景から私は人間関係における大事な場面では、リアルの空気感を大切にしたいし、その場を以て人を想いたい。
ここで最近感銘を受けた言葉をひとつ紹介します。
「男子、三日会わざれば刮目(かつもく)して見よ」
原文は『三国志演義』が出典で、呉(ご)の武将(ぶしょう)呂蒙(りょもう)の故事から出ています。
呂蒙という人は、呉王(ごおう)孫権(そんけん)に度々重んじられてきましたが、家がもともと貧しく、学問に触れる機会もなかったこともあり、武力一辺倒で学問に全く興味のない人でした。そのため、書類なども自分が話した内容を聞き取らせて、部下に作成してもらっていたそうです。そんな呂蒙の学識のなさを笑って、人々は、「呉下の阿蒙(ごかのあもう)」とからかっていたのです。「阿蒙」というのは、今で言う「蒙ちゃん」といったニュアンスで、さげすんだ言い方ではなく、親しみを込めて、「おばかな蒙ちゃん」的な感じでからかっていました。
そんないつまでも「阿蒙」のままでいる呂蒙を見かねた呉王孫権は呂蒙に学問を勧めましたが、はじめのうち呂蒙は「軍中は何かと忙しく、書物を読む時間を取れない」と言い返していました。しかし、孫権は「博士になろうとしなくていいから、歴史を見渡して見識を広めてみてはどうか」と、どの書物を読んで学ぶべきかを教えたともいいます。国王にそこまで言われたら、やらざるをえません。呂蒙は発奮して、勉学にも本腰を入れ、やがて本職の儒学者たちをもしのぐほど読書をし、勉強を続け、見る見るうちに教養を身につけます。
勇猛(ゆうもう)なだけで無学であった呂蒙を軽蔑(けいべつ)していた知識人の魯粛(ろしゅく)は、日に日に上がる呂蒙の評判を聞いて挨拶(あいさつ)に向かいました。実際に語り合った呂蒙は、以前とは比べ物にならないくらい豊かな学識を兼ね備えた大人物へと成長していたのです。
おどろいた魯粛は、「昔言われていた『呉下の阿蒙』であったとはとても思えない」と称賛(しょうさん)しました。これに対して呂蒙は「士別れて三日、即(すなわ)ち更(さら)に刮目(かつもく)して相待すべし」、つまり「士たるもの、別れて三日もすれば大いに成長しているものであって、また次に会う時が目をこすって違う目でみなければなりませんよ」と答えたのです。(『あんな話 こんな話 今週の朝礼』より 2023/09/28 https://www.nohkai.ne.jp/tyorei/?p=2090)
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