名づけない癖をつける

自分が悪だと思っている事は本当に悪い事なのだろうか?
悪というワードだけに留めるのではなく、さらに深堀して考えてみる。
Wikipediaに悪について面白い説明があったので紹介する。

悪という言葉を深堀してみる

本来「悪」は「突出した」という意味合をもつ。 突出して平均から外れた人間は、広範囲かつ支配的な統治、あるいは徴兵した軍隊における連携的な行動の妨げになり、これゆえ古代中国における「悪」概念は、「命令・規則に従わないもの」に対する価値評価となった。一方「善」概念は、「皇帝の命令・政治的規則に従うもの」に対する価値評価である。

Wikipedia

日本語における「悪」という言葉は、もともと剽悍さや力強さを表す言葉としても使われ、否定的な意味しかないわけではない。例えば、源義朝の長男・義平はその勇猛さから「悪源太」と、左大臣藤原頼長はその妥協を知らない性格から「悪左府」、江戸時代初期に権勢を振るった以心崇伝はその強引な政治手法により「大欲山気根院僭上寺悪国師」と評された。鎌倉時代末期における悪党もその典型例であり、力の強い勢力という意味である。

Wikipedia

人間はあらゆるものを概念化する生き物で、概念化する時に必要になってくるのが言葉です。つまり、言葉にはこれまでの人類の歴史が詰まっている。
普段、私たちが使用する言葉は、これまでの人類が紡いできた概念化の結晶なのである。
固有の人間が生み出したこの言葉には、多少のエゴが含まれるものもあるだろう。
例えば、『三度目の正直』『二度あることは三度ある』これらの言葉は矛盾点がある。
つまり、言葉とは個人的な経験や感情が含まれているということになる。
何が言いたいかっていうと、これまでの人類が紡いできた言葉という素晴らしいツールにはエゴが含有している場合があるから、言葉を巧みに使う我々現代人は、表現する言葉が本当に自分が伝えたい内容に沿っているか考える癖をつける必要があると思う。
悪という言葉一つとってもそうです。
先ほどのWikipediaの説明を例に挙げると、「善」概念は、「皇帝の命令・政治的規則に従うもの」に対する価値評価であるとするならば、皇帝の命令・政治的規則に従わないものはすべて悪なのでしょうか?
これも面白くて、皇帝側からすれば自分の命令に従わない者を悪と名付けることによって、悪はマイノリティーとなり排除される可能性が高くなる。
支配する側からすれば悪を概念化するメリットが多い。
これも言い方によっては皇帝のエゴにより生まれた言葉の可能性はある。
悪を肯定するわけではないのだが、色々な考察が出来るから言葉は面白い。

諦という言葉の意味

皆さん『諦』という言葉を見て、どう思いますか?
使用される代表的な言葉は、諦めるではないでしょうか。
諦めるという言葉は、一般的にネガティブな意味で使用される場合があります。
例えば、『好きな人がいるけど、その人には彼氏がいるから諦める』『ボートレーサーになりたいけど、身長が高いから諦める』とか。
ですが、この『諦』は仏教ではとても重要な文字なんです。

「諦」というのは「サッティヤ」など、「真実」を意味するサンスクリット語からの漢訳語です。 したがって、仏教では「諦める」は「あきらかにみる」「明らかに真実を観る」ということになります。 それはつまりは、もののありようを、何の偏見や前提や思いこみなどを交えず、ありのままに見る・知るということです。

岐阜聖徳学園大学 仏教文化研究所

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