[日記]優しい世界を常に押し付け始めたら、それは果たして優しいのか

優しさ…この数年この概念を押し付けて来た人たちのせいで、私は優しさとは一体何なのかが分からなくなってしまった。


この言葉の意味は人それぞれ解釈が違うものだと私は思っている。
私にとっての優しさとは、お互いの価値観を尊重しあう、良いことは良い、悪いことは悪いときちんと言い合える関係性、そして、いつまでも恒常的に続くものではない。

優しい世界というネットスラングも、その場で生じた"個人的"に優しいと思った空間に対して発する発言だと解釈している。

しかし、自身の考える優しさというものの考え方の価値観が皆一緒で、総意的なものだと考える人がいる。そもそもこの概念が人それぞれなんて学校で教えてくれるわけないので仕方がない。

人間2人以上いたら、必ずどこかで考え方の違いが生じて、そこをお互いどこまで妥協できるかが生存戦略だと思っている。
そしてその妥協できない部分が自身の命、名誉、経済に関わるものなら、腹割って話し合うところだろう。
少なくとも、争ってる場合ではない学校や職場なら100歩譲ってともかく、家族、夫婦は互いの経済関係とか関係なくそれが出来るべきだ。

本当は皆平和主義者なので争いたくないし、私も平和主義者なので争いたくない。

しかしながら皆争うのをめんどくさくて拒む余り、常に優しさを相手に求め、押し付ける事態になったと近頃感じている。この優しさには時には冷静になれという意味も含まれているだろうが基本単なる怯え、言論封殺、エゴが含まれている様にしか感じない。

この様に、優しさという概念を現実でもネットでも周囲に押し付ける人間が周囲に多過ぎるせいで、もはや優しい世界なんて言葉は単なる暴力、一種のディストピア、己の閉じ籠る殻の形成としか捉えられなくなった。


幸せとか、人生が充実しているかについてもそうだ。平和すぎるあまり、貪欲になってハードルが上がり過ぎている様に見える。


一度天王寺動物園の目の前を通り過ぎた時に見た光景、働いているのかも分からないおじさん達が昼間からワンカップを開けて、階段に座ってお互い駄弁りながら談笑していた。

充実した人生のハードルなんてあの位で良いのよ。
、とその人たちを見て微笑ましくなった。


暫くはもう、その場で一瞬一瞬に感じた「優しいなあ、あったかいなあ。」というものしか最早本当の優しさとしか捉えられないだろう。

それで良いと思う。その位早いもので良いと思う。長くなって慣れたら甘えてダメになってまう。
改めてそう考えた一週間であった。

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