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気流の鳴る音/真木悠介

僕のバイブルについて話そうと思う。

「知者は“心のある道”を選ぶ。どんな道にせよ、知者は心のある道を旅する。」アメリカ原住民と諸大陸の民衆たちの、呼応する知の明晰と感性の豊饒と出会うことを通して、「近代」のあとの世界と生き方を構想する翼としての、“比較社会学”のモチーフとコンセプトとを確立する。

書評の在り方について

その前に書評を書く際にいつも思うところがあるのだが、何故世間一般の書評やレビューはその本の内容しか書かれていないのだろうか。

Amazonにしろ、noteや Twitterなんかの本の紹介にしろ本の内容は読めばわかるし、要約やどんな話なのかは大体の場合本の背表紙に書いてあるので、わざわざ素人が書く必要は無いと思う。

どちらかと言うとこういった本の紹介は、どのようなタイミングで、どのようにしてこの本と出会い、どう感じて他人にお勧めしたいと思ったのかが大事だと思う。

なんかの番組で又吉直樹さんが

「本は出会い方が大事」と言うようなことを仰ってた気がする(記憶違いだったら申し訳ない)が、これは非常に共感した。

どんな名著とされる本でもタイミングが合わなければ愚作に見えるし、タイミングさえ合えば道端で売ってる名もなき作家のエッセイに心を動かされる事もある。

であれば、こういった本の紹介はもっとエゴイスティックに自分がどういう時に出会ってどう感じたのか、どういう人に読んで欲しいのかを書くべきだと僕は思う。

本の内容に余計なバイアスがかかるのは紹介する上で最もやってはいけない事なのである。

このnoteは僕にとって承認欲求を満たすついでに要素として僕に似た人に向けて何かを与えられれば良いという建付のため自分語りが多くなることはご容赦いただきたい。

『気流の鳴る音/真木悠介』

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冒頭にも書いたが僕のバイブルである

出会った頃の僕-ロレックスを買う理由-

この本を初めて読んだのは確か19歳か20歳の頃で、投資で成功して大学や高校時代の友達に盛んに年収マウントをとっていた頃である。

当時は300万するロレックスをこれ見よがしに着けてみたり、友達を見つけてはマウントをとって承認欲求を満たすことで大忙しだった僕は特に努力をしたという実感を得ないまま「成功者」というレッテルを貼り(自ら貼った)ある種の生きづらさを感じていた様に思う。

そもそも口座にお金があっても、使い方を知らないし、ブランド物にも無縁の環境で育っていたので物を買う事に興味も無かった。

僕がロレックスを買ったわけは「俺は凄いんだぞ」ということを親や友達、そして名前も顔も知らない世間一般の人にアピールしたかっただけだった。

僕の収入が上がったのが後10年遅ければまた違った未来があったかもしれないが、

中学でも高校でもクラスの隅で特定の友人と傷を舐め合ってただけの若者にはこの成功はある意味で重すぎたのだと思う。

18年間抑えつけてた自尊心が屈折した形で顕在化したという、よくある話である。

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出会い方-友人Hからのすすめ-

そんな折に大学の学友であった友人Hから、この本をお勧めされた。

友人Hは、28歳で大学に通い出した変人で当時はまだ珍しかった書籍の転売(背取り)でひと財産を築いていた奇人である。

お互い読書が趣味という事もあり、Hの家には転売用の本が雑多に積み上げられていたため、僕はよくHの家に逃げ込んでいた。

Hの持つ独特の雰囲気もさることながら、10個歳が離れている事で「どう思われても良い」というのが心地よかったのだと思う。

今思えばHも当時の僕のような屈折した自尊心の表現方法がわからず心に空洞を抱えてたのだろうと思う。

『気流の鳴る音』を進めて貰ったのは、いつものようにHとタバコを吸いながら本について話していた時だった。

『気流の鳴る音』の作者真木悠介は、東京大学名誉教授で現代社会学の権威である見田宗介さんの筆名である。

もう覚えてないが、社会学の講義の後で見田宗介の論考について話しているHから『気流の鳴る音』を紹介されたのだと思う。

「お前は絶対にこれを読むべきだ」

と念を押されたのは今でもハッキリと覚えている。

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読了と感想

『気流の鳴る音』は「気流のなる音」「旅のノートから」「交響するコミューン」という3部から構成されていて、コミュニティの在り方から近代以降の人としての在り方(生き方)を考察している本である。

学説的な立ち位置や、意義のようなものはこの場では触れないとしても

近代的な価値観が全てではないとする論考は当時、分相応を遥かに超えて作り上げた自己像に苦しんでいた僕には非常に刺さった。

特に作中で記されている

「知者は“心のある道”を選ぶ。どんな道にせよ、知者は心のある道を旅する。」

という一節は僕に今後の生き方を自問させるには充分過ぎる衝撃だった。

もちろん生き方なんて、そう簡単に変えれる訳ではないのでそこから大学在学中の2年くらいを悶々と自問し続けるわけだが、間違いなくそのキッカケはこの本のこの一節から始まっている。

もちろん20歳そこそこで大金を手に入れたという人が多いとは思わないが、資本主義や新自由主義の世の中で「私はこのままで良いのだろうか」という漠然とした疑問を抱いている若者は多いのではないだろうか?

大学の学部も就活の希望職種も自分で選択してきたようで少なからず社会からの影響を受けるモノだ。

僕らが社会的な生物として生きている以上、それは仕方ない。

しかしながら、当時の僕の様に社会の尺度で物事を選択する人生では資本主義という大きな物語の中で埋没していくのは自明だと思う。

なぜなら社会の物差し(年収や学歴や役職など)は社会が求める人格のための物差しであって、断じてあなたのためだけの物差しではない。

本当の意味での自由な生き方とは、自分の物差しを自分で作り、自分が思う在り方をゴールにする事だと僕は思う。

その結果として、社会的な物差しが自分の物差しに内包されるのが人生の価値判断としてのあるべき姿である。

当時の僕がロレックスを買っても、車を買っても満たされなかったのは、社会の物差しと自分の物差しがマッチしていなかったためであり、急激な収入の変化から無理矢理社会の物差しに迎合したため産まれたギャップによるものである。

言い方は良くないかもしれないが、社会の価値観も、規範も、倫理も所詮は人類が作り上げたものでその正当性を保証するものは何もない。

「あなた」の人生は「あなた自身」のものなのだから社会にとって良い人生ではなく、あなたにとって良い人生(心のある道)を生きて欲しいと僕は思う。

そういうメッセージをこの本から、あのタイミングで受け取れた事は僕の人生にとっての転機だと思うし、当時の僕の様に悶々としている若者がいるのであれば是非この本を読んでみて欲しい。


終わりに

このnoteを書きながら思いかえしてみれば、『気流の鳴る音』をお勧めしてくれた当時のHと僕はついに同い年になった。

Hとは大学以来疎遠になっているが連絡をとってみようと思った。

こんな時代なので気軽に飲みに誘う事もできないが、こんな時代だからこそ旧友とコミュニケーションを取ってみるのも悪くない。



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