衣服の大量保有を親のせいにしーの、安いトップスを買うために騒ぎーの、やや悔やみーの、それで嬉しーの
クローゼットは満パンだ。着るものなんて一生分買ってある、というのを口癖に。
スカートを買ってから2年と2か月、トップスに至っては4年1か月前を最後に新調してこなかった。肌色のストッキングを除けば、あと半世紀生きたとしても新しく買う必要がない。
その原因は親にあり。
(このページには、衣類1枚を買った経緯と、ポチってから数分の出来事が書いてあります。いくらでも長く書ける体質の人間が、字数を制約されないとどうなるかがよくわかります。長文にご注意ください。)
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母は保険と貯蓄の鬼だった。子供の頃は着るものもろくに買ってもらえなかった。服装はいつも2着しかなかった。ずいぶんみじめな思いをした。その反動で、自分のお金を得てからは、必要以上のファッショングッズを買い集めたものである。手持ちのものを覚えていられなくなってからも収集は続いた。わたしは、着るためでなく、保有する方を目的にしていた。組み合わせも考えず、素敵に見えたら手に入れる方針。
首のほくろ。それは衣装持ちの証であるとされている。紳士服の仕立て屋から嫁いできた母が言うのだから間違いない(と思うことにしている)。わたしは着るものを買う理由、根拠、正当性をそこに求めているふしがある。
こうして、着たことのない、着るつもりもない衣類によってクローゼットは占拠されている。後生大事に持つつもりだ。「なぜわたしがあれらの服に袖を通さなくてはならないのか。クローゼットに入れておくために買い求めたのに」。
さて、父は物持ちがいいうえ、体型が変わらない。アルバムを見ると驚嘆する。学生のときのジャケットを今も着ている! 古くさくもなく(すごくね?)。50年も前の写真からわたしは学ぶ。着るも捨てるも自由なのだと。
それから、流行り廃りをわたしは大事に思わない。好きな衣服を着て何が悪い(笑)、と。だから、流行のファッションをがまんする必要がない。幸いにしてわたし以外のみんなが流行にしたがってお金を使い、経済を回してくれている。
両親は、この世代で特に流行っているという断捨離が好きになった(父の物持ちの良さは、これから失われるのかもしれない)。断捨離を一種のライフスキルにさえし始めた。親世代が残して死んだ家と、膨大なガラクタに手を焼いた経験あってのものである。物不足に苦しんだ過去もないという。
一方でわたしは先述のように、保有に生き甲斐を覚える性質なので、もう使えないものとさえ別れたくない。捨てた物体は二度と帰ってこないし、いつでもまた買えばいいとも思わない(わたしに定収はない)。また戦争でも始まって衣食住に不便する不幸を見るかもしれない(考えすぎである)。そう、誰もが認める悲観思考だ。
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わたしはクローゼットに唸るほどの衣類を詰めていながら、2通りの衣服しか着ないというライフスタイルを貫いている。これは好きでそうしている。すなわち、ストレッチ教室の着替えに都合のいいセパレートの組み合わせ(パターンA)と、お出かけ用のワンピース(パターンB)だ。それには春夏用と秋冬用がおのおの考案されていて、わたしのコーディネートは年間を通じて4パターンしかないということになる。
周りの人々は、「またその服?」と言ってくるか、口には出さないかの2通り。子供の頃に得た耐性が発揮される。家でのわたしはパジャマを着るため、どの衣服も部屋着に格下げされることはない。
パーツの保有割合には偏りがある。トップスが少ないのだ。理由は希少性と熱意による。わたしの体型は、スカートとワンピースが3号なのに対し上は5号か7号で足りる。それで手に入れようとする切迫感に差が出る。容易に入手できるトップスこそ買わずにいられた。
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不可解なこともあるものだ。洗濯して縮み、うす汚れて、毛玉の発生が止まらなくなった、みすぼらしいカーディガンをこのほど捨てた。春夏パターンAを手放したのだ。そんな心境になった理由は今もわからない。色違い(まだ小ぎれい)があるから捨てるハードルは微減したけれど。ただ、これを機に着ないのを処分するという路線には行きそうにない。
それから、去年まで秋冬パターンAとして不動の地位にあった徳利に、なんとわたしは飽きた。お払い箱にはならないまでももう出番はない。別の服を着て何が悪い(笑)とつぶやいてみる。
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衣装持ちがファッション上手とは限らない。独特の買い方のせいでわたしもそう。着るもの無くなったよ? 今後を気にしているとき、美容院の雑誌で安いニットに目を留める。今の世の中にはこんな傑作があるのか! 顎が外れる思いがした。買いに行く、と自分の行動の予感がし、しっかりとメーカー名を頭に叩きこんだのに、家へ帰るとわからなくなっていた。
幸い、雑誌名を確認してあった。美容院を再訪して、それを見せてもらおうか。1ページの情報のためにあの雑誌を買おうか。
でもわたしは、膨大な数のレディースファッションブランド一覧から「あのメーカー名」を探し出すのをあきらめなかった。30分もかかって見つけたメーカーのそのニットは、楽天市場で買えることがわかった(無店舗)。
2年前までわたしが通信販売で買っていたサイトは、「ワールドオンライン アウトレット」といった。そこしか信用できないからだ。今も変わらず。他にもわたしはルールを持っている。「値引きされた売れ残りにしか価値がない(わたしは売れ残って安くなった衣服だけ着ていればいい)」。どちらの信念も捨てることになった。
きっとこのメーカーは、他にもわたしに素敵な服を与えてくれる。だからサイト内を延々と探した。でも、ややいいと思ったトップスさえ第一志望の足元にも及ばない。両方買ってもいいナ。用意された色の種類は同じ。好きな色は2つある。ピンクかな、小汚い水色かな!問題はどっちをどの色にするかだナ。
人に訊いてみよっと。SNS の知り合い3人と元彼に写真付きダイレクトメールを送りーの、意見を聞いてまた迷いーの、逡巡は続きーの、売り切れが怖くなりーの、ついにポチれて心楽しーの。
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「着るため衣服」を買ったわたし。慣れないことをしたものだ。あした発送してもらえる。きっとあさって届く。おや、心境の変化が起きつつある……。
わたしはドキドキして荷物をすぐには開けられまい。体型に合わないんじゃないかとか、肌触りが悪いかもしれないとか、似合わなかったらつらいとか、ニットはうちに買われてきて意義があるかとか、そう、ずっと気を揉んでいる。衣服の新調はかくも大変なものか。胃が痛いょ。
それから、おろしたてのトップスを目にした知り合いが、「どうした!?」とびっくりする顔が浮かぶ。聞きたいのはこっちよね。
今後の予測と、消耗した心の一言二言を述べる。「準・着たきりすずめ」を脱却する可能性は低い。ニット1着のために苦しむ暇よ、これほど身につまされるものか。わたしはニットから身を守るために、あさってまで忘れる方法を知りたい。
胃は変わらず心因性の収縮に痛めつけられている。あのニットを買えたのは嬉しいが、こうなったらもう「買えるな」と思ってしまう。今さらよ。販売店はメールで訊いてくるに、「注文内容に不備はないですか?」と。間違いなく買ったよ! まだ取り消し可能だって。買うよ! 販売店は発送の完了も連絡してきそう。
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荷物はどんどんわたしに近づきくる。この苦を知らずに。わたしに着られるつもりで。最後のトップスになるかもしれない。大袈裟じゃの。
豊かな物流や、好きな商品を買える環境には無論感謝する。荷物に罪はない。わたしの受け入れ態勢があまのじゃくなだけ。ただわくわくして待つだけのことが、どうしてできないのだろう。
祈ろうか。しかし何て?「ニットさんありがとう」、違うな……。「ようこそうちへ」、もっと離れたな……。
買い物の心理分析でもしよう。トップス1枚をして、遠慮なしの執念が自分に残っていたことがわかった。また、着るものに関する方針といった長期的な考えが、ある日変わるのだと知った。
わたしはぜいたくな嘆きを煮詰めーの、ニットに祈りーの、とことん思い煩ってニットを迎えーの、もっと一途に待っていていーの! 弾む鼓動が堪らないーの。
ありがたいことです。目に留めてくださった あなたの心にも喜びを。