折り合いをつけて生きていく
世界中の重力がひと部屋に集まっているみたいだ。
珍しく私より先に起きた恋人が、もぞもぞとベッドから出たそうにしている。「いま何時?」聞かなくても、さっきのアラームからだいたいの時間は察しがついているけれど、なかなか起き上がれない自分への戒めとして時刻を尋ねる。
27歳のはじまりはこんなものだ。
しとしと降る雨の音を聞きながら、ベランダに干しっぱなしの洗濯物たちを思う。これだけ濡れてたら洗い直しだな。もういいや、どうせなら最後まで濡れさせておこう。
低気圧で重くなった頭をどうにか持ち上げて、ベッドから這い出し、一日を始めた。
そして27歳になった朝、私が真っ先に考えたのは「30歳まであと3年か」というぼんやりとした絶望だった。
30歳になるのはもっと先で、もっともっと大人だと思っていた。
20歳になった頃の私には……いや、数年前の社会人になりたての頃の私には、なりたい自分、やりたい仕事、行きたい場所がもっともっとあった。そして、自分なら何にでもなれる、できる、行けるとも思っていた。
気づけば社会人歴も4年半となり、人の入れ替わりが激しい会社の中でもがいているうちに、いつの間にやら後輩ができ、部下ができ、責任が増え。
自分の力ではどうにもならないことが世の中には沢山あることをようやく思い知り、ありとあらゆる自信を削がれてしまった。
仕事で結果を出しても、全社員の前で表彰されても、その夜に祝杯をあげてしまえば後は酔いが覚めると同時にすべては忘却の彼方へ。
そして「まぁ、この成績も自分だけの実力じゃないしな」と、ひとり寂しくこげぱんのポーズを決めてしまうのだ。
そんなことを繰り返しているうちに、元から持っていた自己否定がさらに強くなってしまった。
私は何もできない、何の能力も取り柄もない。生きる目的もなければ努力もできず、年始に立てた目標を思い返すことすらせずに、ただのんべんだらりと生きている。
適応能力だけが鍛えられ、人の顔色を見ては機嫌を取る言葉ばかり選んで並べる。少しずつ削られる自尊心は、居酒屋の薄いハイボールとフライドポテトで埋めて見ないふりをする。
さらには運悪く、というかこれはメンタル面の問題が可視化しただけかとは思うが、この1年でぶくぶくと太ってしまい、人生最高の体重で誕生日を迎えた。
そんな感じなので、まあ、メンタルとしては非常に良くない状態だった。死への切望はぐんと減りさえしたが、代わりに永遠に続くように思える無気力さと、このまま30代を迎えて良いのかという焦り、絶望がずっとついて回っていた。
でも、それはもう仕方のないことだ。
誕生日を終え、師走に突入したタイミングでふと悟った。
人生、すべて折り合いをつけていくしかない。
あれがイヤ、これがイヤ、言い出せばキリがないことばかりある。子どもの頃に書いた「しょうらいのゆめ」を叶えられないことも、そのために努力さえできないことも、仕事で疲れ果てて廃人のようになっている自分も。
ただすべて受け入れて、それでも毎日生きているということを自分で認めるしかないのだ。
それに、勿論だけどイヤなことばかりじゃない。
なのに今の私は嬉しいことも「でも自分の本当の望みとは違うのではないか」と後から全否定してしまうから、だからすべてが苦しみに変わってしまう。
ずっと靄がかかったままの視界が少しクリアになった瞬間だった。
何も変われない自分に嫌気がさしていて、虚無感を引きずったままとりあえず毎日を暮らすだけで、そんな生活にも疲れ切っていたけれど、でもそんな自分のことを認めてもいいのだ。私は今のままの私を愛していいのだと、今更ながらに少しずつ気づき始めている。
夜の風が頬を切る。ぐんと冷え込みが激しくなったな、とマフラーに顔を埋めてあくびをひとつ。アルコールの匂いがマスクの中に充満した。
前までは現実逃避のための手段でしかなかったお酒を、愉しめている自分がいる。懐かしい感覚。少しずつでいいから、こういった感情を取り戻していきたい。
ふわふわと浮き立つような気持ちで、恋人の待つ家まで少し足早になった。
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