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犬 中勘助著 (17)

※中勘助著『犬』という作品です。
※旧仮名遣いは新仮名遣いに、旧漢字は現在使われている漢字に修正し、読みの難しい漢字にはルビを振ってあります。

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17
「ああ、私は行こう。どうしても行こう。私は命がけで行こう。どうかして 途中で死んだってこうしているよりはましだ。私はどうしても行く。どうしたって行く。駱駝の足あとを嗅いで行けば行けないことはない。あんなにたんと駱駝が通ったんだもの。それにあの車の轍や馬の足あとでもわかるだろう。……でも私はこの姿で……」
 彼女は当惑した。
「いえいえどうだってかまわない。ものがいえなくても、私だということがわからなくても、私はそばにいさえすればいい。顔を見るだけでも、声をきくだけでもいい。私は尾を振って、あまえて、あの人の手をなめよう。私はこの姿でせいいっぱいのことをしよう。あの人はきっと私を可愛がってくれるにちがいない。ああ、そうしよう。私はあの人のとこへ行こう」
 クサカまでの道は彼女が人間であってはとてもできないほどかなりはっきりと見えている。彼女は僧犬を見た。正体もなく寝込んでいる。彼女は息を ころしてそっと身を起した。そして忍び足に、僧犬の目ざとい動物の眠りをさますことなしに首尾よく住みかをぬけだした。外はまだ暗かった。彼女は 今こそ天恵となった鋭敏な犬の感官を極度に働かせて出来るだけ速くクサカ のほうへかけだした。彼女はあせったけれど路のわかれたところへくるとは間違まちがいなく方向をきめるために暫くは躊躇しなければならなかった。彼女は気が気でなかった。僧犬が目をさますまでにせめてあの川を越してしまわねばならぬ。追いつかれぬうちに、早く早く。彼女はひた走りに走った。幸に道も間違わず、夜のしらしらとあけるころ川岸へついた。彼女はそこですこし息をつかねばならなかった。そして汀から頭をのばして水をのもうとした。そのとき彼女は後ろのほうにばたばたという足音とはげしい息づかいをきいた。
「もうだめだ」
と彼女は思った。
「くやしい。くやしい。私は逃げそくなってしまった」
 僧犬は半狂乱で駆けつけた。凄しい形相をしている。肉交の相手を失おう とする時の醜悪な憤怒だ。
「ごめんなさい」
 彼女は尻尾を後足の間へ巻き込んでちぢこまってしまった。僧犬は猛りたって無性にぱっぱっと砂を蹴上げた。彼はどうして自分の感情をあらわしてよいかわからなかった。勿論この際彼女の立場になって考えるなどは思いもよらない。自分がああまで熱愛して――全然肉的にではあるけれども――一生の幸福をそこにかけている相手が無情にも自分の寝息をうかがって逃亡しようとする。彼はくやしさ、腹立たしさにふるえた。女の肉がくいちぎってやりたかった。けれどもそうすればもうああした楽しみはできなくなる。僧犬のなかの人間がそんなことを考えた。で、そういう場合人間、殊に自分の弱点を知っている人間が賢くも示すことのある寛容と忌耐とをもっていった。
「なぜ逃げたのぢゃ」
彼女は吃り吃り答えた。
「クサカの様子が見たくなって……私はすぐ帰るつもりだったのです」
 嘘なことはわかっていた。が、それを本当にしてつれて帰るよりほかしかたがなかった。
「馬鹿者が。クサカなぞ見てどうする」
 そのまま彼らはチャクチャの住みかへ帰った。
 それからまた僧犬にとっては極楽の、彼女にとっては生きながらの地獄の生活がつづいた。彼女は逃げたいという気は寸時もやまなかったけれど逃げ出せる望はまったくなかった。僧犬はその後それについて一言もいわなかったがあれ以来すこしも気をゆるさない。それにあの時の恐しさもまた彼女に再挙の勇気を失わしてしまった。
「今度こそ噛み殺されてしまうだろう」
彼女は命が惜しかった。それは単に生命に対する本能的な執着ばかりでなく、そうなれば「あの人」と未来永劫あえなくなってしまう――と彼女は思った――のがたまらなかった。彼女は未練にも、生きてさえいればいつかはまた「あの人」の顔なりと見、聲なりときく時が来ないとも限らないと思う。そのうえ生憎彼女はあの夜と同じ夢をくりかえしくりかえし見るのであった。それはさめればいつも堪えがたいおもいをさせたけれど、それでも見ないよりはよっぽどましであった。彼女はそんな夢が見られるだけでも生きていたかった。恋するものの常として夢のなかの恋人はその貴さ、大事さ、……に於てすこしもうつつの人にちがわなかった。彼女はその夢を嬉しくわが胸に秘めてひとりで思いかえしていた。人しれぬ逢う瀬ののちのように。そんなにしてるうちに 彼女はいつか自分が身重になったことに気がついた。彼女は切っても切れぬ強靭な、汚しい肉縄で僧犬と自分がしっかりと結びつけられてしまったような気がした。それはひっ張ればひっ張るほど飴みたいにのびてきてどうしてもちぎれない。いやな、因果な、宿命的なものだ。彼女はまっ黒な、どろどろした悲しみに沈んだ。かつて「あの人」の子をもった場合の回想などは勿論もちろんごうもこの目前の事実を潤色し、緩和するに足らない。それで彼女はただなにもかも「神罰」とあきらめるほかしかたがなかった。同じことを僧犬はまったく別な風に考えた。それは彼が彼女のなかに宿ってその血肉に養はれることであり、彼の生活の精髓――性欲生活――がそこに具象されることであり、彼と彼女との関係が否応なしに結実することであつた。彼はひとりでほくそ笑んでいた。ただ困るのは彼の熾烈な性欲の始末であった。彼女は妊娠してから 絶対に彼を近づけない。威嚇も哀願もかいがなかった。彼はしまいに鬱血する情欲にうかされて、彼女の寝息をうかがって、そこいらの雌犬を捜しに出かけた。雌犬はみな彼の図体をみていちはやく逃げかくれてしまった。それにたまたまつかまるものがあっても折悪しく今は本当の犬の交尾期ではなかった。で、彼が無理無体につがおうとすると牙を鳴らしてとびかかってきた。それは自然にそなわった猛烈な爆発的な生理的反感であつた。その点に於ては一般に他の動物の性欲はもっともだらしなく発達した人間のそれよりもむしろ淡白かつ合理的である。そんなで、いわば凡ての性欲の門は彼にとざされていた。そこで彼はまたすごすごと彼女のところへ帰ってきた。

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