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犬 中勘助著 (18)

※中勘助著『犬』という作品です。
※旧仮名遣いは新仮名遣いに、旧漢字は現在使われている漢字に修正し、読みの難しい漢字にはルビを振ってあります。

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18
 そうこうするうちに彼女の二列にならんだ乳房は著しくふくらんで地につ きそうになった。ある朝彼女は腹のなかにちょうど糞をする時のような衝動 を感じた。そして思わずすこしいきんだらぴょこりと仔が産まれた。なんの 造作もなかった。彼女は早速臍帯を噛みきって唯もう本能的な愛情をもって 手どもをなめはじめた。それが何者の子だなぞということはてんで念頭に浮 ばなかった。分娩のため神経過敏になつている彼女にさいわいに本能がそんな思念の起る余地を与えなかった。それは血臭い、ぶよぶよした、裸の肉塊であった。そうしてなんともいいようのない情愛が、味となり、においとなって、舌や鼻から全身にしみこんできた。うとうとしていた僧犬は目をさましてすぐに
事態を見てとった。
「おお生まれたか。お手柄ぢゃったの」
 流石に彼も父親としての情愛を覚えて、歩みよって子どもをなめようとした。
「あ、その口でなめられちゃ」
と彼女は思った。しかしやっぱり嬉しかった。そのうちにまたぴょこりと生まれた。暫くして三番めのが。そうして最後に第四のものが生まれて依怙贔屓えこひいきのない母の愛撫をうけた。これらの四個の肉塊が尻からひり出されると同時に彼女の世界は一変した。あたかも世界がその四個のものに收縮してしまったかのように彼女の心がそこに集中した。彼女は幸福であった。もしそれが幸福ならば。子どもは目が見えないのでめくら滅法に乳くびをさぐりあててはちゅうちゅうと吸いつく。裸の、敏感な、愛情にうずくところの乳房が彼らの口にふくまれ、すべっこい舌にまかれて、ぺちょぺちょと吸われるのがぞくぞくするほど嬉しい。彼らは胎内にいた時からすっかり彼女に信頼しきって、そして目は見えなくてもちゃんと知ってますよというようにいささかの疑念もなく慕いよって鈴なりになる。彼女は自分の愛情が、湧いて、煮えて、甘い乳となつて、とくとくと彼らの口にほとばしり入って、その五体にまんべんなく行きわたって、それを養い育ててゆくのを感ずる。母親の酣酔かんすいはあれほど自分の変形を嘆いた彼女に生れた仔が四つ足であることを忘れさせた。彼女はまたその抑えきれない母の矜と喜を相手かまわずわかちたい気持であった。そこで僧犬は二重の満足を得た。子供の出生に対する父としてのそれと、その仔が不意に無心にもたらしたところの彼女との融和に対するそれと。
 子供が心配なのでそれからは彼らは交替で食を求めに出ることにした。僧犬は彼女の逃走についてはもうすこしも懸念しなかった。子供をおいてゆけぬことは目に見えていたので。ある日彼は子供に乳をやっている彼女にむかっていった。
「どうぢゃ。夫婦というもののうまみがようわかったぢゃろう。わしがいうことをききさえすればこの楽しみぢゃ。これはわしらが血の塊ぞよ。かわゆかろ。わしもかわえてたまらん。これからはつまらぬ駄々はこねぬものぞい」 
 彼はにたにた笑って彼女の顔を見た。彼には勝ちほこった気持とこれから先の性交の予感があった。彼女は黙っていた。なんともいう気にならなかった。今までただ盲目に働いていた母性、有頂天に跳躍していた愛情が突然ひどい衝撃をうけた。彼女は自分の腹にくっついてふるえている四匹のものをじっと眺めながら思った。
「ああ、これがあの人の子だったら」
 それ自ら満足していた彼女の母性はそれが夫婦の情愛と結びつけられようとした時に俄然として反抗した。今ここにこうして彼女の全心を占領している四匹の子供、それは強要されたる性交の、余儀ない、宿命的な、生理的結果なので、決して相互の愛情の産物ではない。またその理由にもならない。 はたその夫婦間係を肯定し、或は享楽させるところの理由にも原因にもならない。彼女の矜や喜は母子のあいだの神聖な問題で、僧犬にはかかわりのな い、かかわってほしくないことなのである。悪なのである。覚醒した彼女の心は今やそこに一点情ない汚斑のあることを見た。
「あの人の子だったら!」
いわばそれは恋人の子に向けらるべき筈であった母性が、その正常の対象を得ないために、失ったために、ここに恋によってではなく、運命によって授けられた僧犬の子に対して、かりに補償的に働いたにすぎなかった。それはいかに熱烈であろうともそうであった。
 その次の日の午後のことである。僧犬はよほどまえに食を求めに出かけた まま待てど暮せど帰ってこない。彼女はひどく空腹を感じてきた。乳が出な くなったもので子たちはひっきりなしにきゅんきゅん啼いてひとつの乳くび から他の乳くびへと吸いついた。その声が頭へ針を刺されるようにこたえる さぞひもじかろうと思う。そうして詫びるような気持でかわるがわるなめてやってもどうしても啼きやまない。乳くびは血のにじむほど痛くなってきた。彼女はじりじりした。
「ええ、早く帰ってくれればいいものを」
 彼女は彼がまたどこかで牝犬の尻を追い廻してるのにちがいないと思う。彼は口を拭って知らん顔してるけれど彼女はその身体についた牝犬らしい匂に気がついていた。彼女は唾でも吐きたかった。そして嫉妬からではなく、子供に対する愛情から腹が立ってならなかった。もう我慢ができない。子たちは啼き死ぬほど啼いている。彼女は余儀なく子供をおいて餌をあさりにでかけることにした。そうしてそろそろと身を起した。子たちは乳房につるさがったがすきにはなれて転がった。そして一層声高くきゅんきゅんと啼いた。彼女はその際に心を残しながら穴を出た。そうしていつもいちばんはじめに行く大きなごみ捨て場へいったが、あらかたもうほかの犬にあらされて、空虚な胃の半分をみたすほどの食物も見出せなかった。彼女は途中で僧犬にあいもするかと思い思い歩いたけれど運悪くとうとう出あわなかった。その癖ほかの犬には度々出くわしたが、彼女には子をもった母獣の狂的な勇気があったのですこしも怖くはなかった。それから雑沓ざっとうした市場のほうへ行った。そこで時々意地の悪い人間にいじめられながらもともかく相応の餌を拾った。それはいつもならばもう充分なほどであったが、今日のような極度の空腹とからっぽの乳房をみたすにはまだ足りなかった。心あたりの処は残る隅なく歩いたのだけれど。彼女は様子の知れない場所へ行くのには動物的な不安を感じた。それにおいてきた子供も気がかりでならない。彼女はさんざ迷ったあげく、今頃はたぶんもう僧犬が帰っているだろうとあてもない気やすめをしながら思いきってこれまで行ったことのない横町へ曲り込んだ。うす気味のわるい小路をぐるぐるとかいもなく捜しまわった末やっとのことで路ばたに捨てられた大きな魚の頭をみつけた。で、大急ぎでぐわっと噛みついて無茶苦茶にがりがりと噛み砕いてのみこんだ。彼女は幾度も喉に骨をたててはぎゃっと吐き出した。それでやっと堪能して帰ることにした。彼女は腹の重いだけ気が軽かった。彼女は腹一杯の食物が一足ごとにこなれて、全身にまわって、自分を元気づけ、甘い、温い、養いになる乳となって乳房に溜ってくるのを感ずる。その乳が早くのませてやりたいと思う。彼女はいそいそとして足の運びもかろく帰ってきた。住みかへ近づいたのはもう暮れ方であつた。
「おや」
 子たちの声がきこえない。
「ねてるのかしら」

※あと3回ぐらいで終わります。

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