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犬 中勘助著 (8)

※中勘助著『犬』という作品です。
※旧仮名遣いは新仮名遣いに、旧漢字は現在使われている漢字に修正し、読みの難しい漢字にはルビを振ってあります。

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8
 それとは知らず娘は一心不乱に祈願をこめている。うす暗い燈明の光がこちらから裸体の半面を照らしてふんわりとした輪郭を空に書いている。しっかりと肉づいてのびのびした身体が屈んだり伸びたりする。むりむりとした筋肉が尺蠖せきかくのように屈伸する。彼はその一挙一動、あらゆる部分のあらゆる形、あらゆる運動をひとつも見逃すまいとする。娘はつつましく膝をとじ、跪いてじっと神像を見つめたのち、祈願の言葉を小声にくりかえしながら上体をまげて、両肱と額を地につけて敬虔に平伏する。うなじから背筋へかけて強い弓のようにたわんで、やや鋭い角をなしたいしきがふたつ並んだ踵からわずかにはなれる。娘は起きあがる。顔が美しく上気している。今度はかた膝をふみ出し左手を土について身を支えながら、及び腰に右手をのばして神像に浄水をふりかける。丸々とした長い腕、くぼんだ肱、肉のもりあがった肩、甘いくだもののようにふくらんだ乳房、水々しい股や脛、きゅっと括れた豊な臀……その色と、光沢と、あらゆる曲線と、それは日々生気と芳醇を野の日光と草木の薫から吸いとって蒸すような匂いを放つ一匹の香麞のように見える。
 燈明が消えかかったので娘はかたよせた着物をとってぐるぐると身につけはじめた。韻律正しい詩がこわれて平坦な散文になった。彼は非常な努力をもってそこをはなれた。
 彼女が扉をあけて出た時に聖者は足音をさせて森の奥から現れた。そうして気むずかしい、一種いやな顔をして彼女をねめつけて草庵に入った。
 四日めの午後からクサカの町に大騒ぎがはじまった。それはマームードの軍が帰途再びここに宿営することになって、その先頭の部隊が丁度到着したのである。此度彼の馬蹄が印度の地を踏んでから、向かうところ敵はみな風を望んで降った。インダス、ジェーラム、チェナブ、ラヴィ、サトレッジの諸河は難なく越えられた。彼は鬱茂たるジャングルをとおして「櫛が髪を梳くように」進んだ。十二月初め彼はジャムナ河に達してマットウラを陥れ、さらに東して同月末カナウジに達した。七つの塞をもって固められたガンガ河上の大都市は一日にして攻略された。今や彼は山のごとき戦利品を携えて故国へ凱旋するのである。クサカの住民は唯もう戦々競々としていた。しかし回教徒は案外おとなしくして格別乱暴なくわだてもしなかった。それはもはやこの町には破壊すべきひとつの堂殿も、略奪すべき一個の財宝もないことを知っていたからである。
 戦争と長途の行軍に汚れた軍隊が続々と入り込んだ。負傷者も多くあった。そして皆疲れやつれていた。しかも彼らは皆幸福で元気であった。彼らは遠征の非常な成功に満足し、故郷の近くなったことを喜んだ。サルタン・ムーマードは虎のごとくに驕っていた。また戦利品を満載した駱駝と驚くべき多数の捕虜がひっきりなしにはいってきた。彼らは疲労と絶望で魂のぬけたような様子をしていた。この時波斯ペルシャの奴隷市場は彼らのために供給過多に陥って、一人の奴隷が二シリングで売買されたという。
 娘の心は落ちつきを失った。彼女は「あの人」が町のどこかに来ているような気がしてならない。もしかまだ来ていないとしてもきっとくるに相違ない。そう思えば矢も楯もたまらなく恋しくなる。そうしていつかうっとりと二人があうところえお想像している。
「でももしかして運悪くあの人が!」
 彼女ははっとして空想からさめるともうそれが事実であるかのようにたまらなくなってしまう。と、そのそばからまたなにものかが造作なくそれをうち消してくれる。「あの人」がてつででも出来ていたかのように。
 とはいえ彼女は邪教徒に見つかるのをひどく恐れた。彼らは彼女を無事にすててはおかないであろう。彼女はもう自分の身体をほかの者には指もささせたくないと思う。
「私の身体はあの人にささげてある。勿体なくてどうされよう」
 そんな気持であった。

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