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幼い頃1

 自分の記憶を辿ってみる。
僕が生まれたのは、目黒の大脇病院という所。
父はアメリカに留学中で(会社の留学制度に合格して3年学んだ、この頃に兄が生まれている、だから兄はグリーンカードを取得できる)母は兄を連れて日本に帰ってきていた。
目黒にある母の実家が乳児期の記憶ということになる。
叔母にあたる母の姉もその頃妊娠をしており、6月に僕が生まれ12月に従兄弟のTが生まれることになる。
実家とはいえ、母の母、つまり僕のおばあちゃんは母が20の頃に亡くなっていたので、妊娠中の叔母を頼っての出産だったのだろう。
ケージに入ってクルクル回るおもちゃを見上げていたのを、おぼろげながら覚えている。それ以外の記憶はあまりないが、おんなじ年の従兄弟と赤ちゃん同士で布団に寝転がっている写真を見ると、ああ、ここで乳児期を過ごしていたんだなとわかる。
目黒にいる時期は、父には会っていない。
ちなみに父は、留学から帰って来る時に飛行機が落ちるかもしれないという機内アナウンスを聞いて(緊急事態時に出る酸素吸入のマスクが飛び出て、機体が大きく揺れていた、エンジンが一つ止まってしまったらしい)、それまでの人生が走馬灯のように巡ったが、想像上の僕と大きくなってきた3歳の兄、半年会っていなかった母、を思い浮かべたという事を後に聞いた。父にとっては、思いがけない体験だったようで、何度もこの話は聞かされた。もちろん飛行機は落ちないで不時着したのだが、調べればこの事故の記録は残っているかもしれない。
 8ヶ月の頃に、横浜にある一軒目の家に移り住む事になる。ここに7歳まで7年間住んでいたのだが、この頃の記憶は意外と残っている。原風景。二階建ての一軒家で青い瓦の洋風建築、肌色の壁、小さな庭。
家の横に、なだらかな斜面の丘があった。庭にある黒い鉄柵を超えるとその丘に出ることが出来た。丘には夏になると、自分の背丈よりも背の高い雑草が生い茂り、冬は枯れ草を踏んで歩くことが出来た。この丘でほぼ毎日、兄と一緒に、または一人で遊んでいた。
 
 2歳のころに飼い始めたラッキーというビーグル犬がいた。生まれて初めてのソウルメイトというか、友達だったように思う。僕が撫でると身を擦り寄せて来て、濡れた鼻を顔に押し付けて大きな舌で舐めてきた、嬉しい気持ちになった。僕も大事なおやつをラッキーにこっそりあげたりした。ラッキーの黒い大きな目、今でもよく覚えている。犬小屋のすえたケモノの匂い、土を掘り返した穴、水を入れたステンレスのボウル、鎖で繋がれた赤い首輪、歩く度にガラガラと犬小屋に鎖の擦れる音が聞こえ、茶色の耳は前に垂れていて、前足は大きい。よく上に乗っかられてベロベロ舐められていた。白いしっぽが揺れている。散歩は兄と母と三人で行った。僕は小さいのでリードは持たせてもらえなかった。
 3歳頃にトイレトレーニングで、「お母さん出たよ〜」と母を呼んだ。和式便所。ドアも開け放っていて尻を出しているのが恥ずかしかった。階段を一人で登ることが出来るようになったのもこの頃。ある日階段で遊んでいて一番上から転げ落ちた。目の横を切って大泣きした。この傷は今も残っている。
まだ幼稚園に通う前、兄の幼稚園の送り迎えに母と行った。手を繋いで、家の前からまっすぐ続くなだらかな坂道を登ってゆく、道の両側には住宅が所狭しと並んでいる。友達の家や、知っている人の家、ボール当てをする家、洋風のレンガ作りの家、平屋、様々な家が並んでいた。
高田は坂の多い街で、家の前には斜度25度位の急な坂があった。家から出ると右側にに20m程度登ると坂の頂上、左側は下り坂になっている。家からまっすぐのところには、幼稚園小学校へ続くなだらかな坂。車が一台通るのがやっとの道幅。白っぽいアスファルトには滑り防止のための丸いドーナツのような円が刻み込まれている。
急坂を使ってオモチャの車でよく遊んだ、プラスチックで出来た赤と黄色の車。ハンドルと足で方向転換をする。ブレーキを靴底でするので、あっという間に靴底のゴムの部分が擦り切れて、靴が使い物にならなくなる(3日と保たなかった)。スピードを出すスリルと制動。壁にぶつかったり、ドブに落ちたり、もまた楽しかった。
「靴がだめになるから、この遊びはやらないで」
と母に言われたが楽しい遊びを辞められるわけもなく、結局車を取り上げられた。(多分捨てられた)
車でよく一緒に遊んでいたのは、近所のチカちゃん。色白の男の子で二人で声を上げて暴走しまくっていた。この子は一緒に幼稚園に通う前に引っ越しをしてしまった。

 幼稚園に通い出した春先に、大好きだったラッキーが死んでしまった。フィラリアという病気にかかったのが原因だった。まだ死の概念のはっきりとしていない自分は、母の両腕に抱き抱えられたラッキーを見上げていたのを覚えている。母も泣いていたと思う。
「ラッキーは死んじゃったのよ」と母から言われてもピンとこなかった。ただもう一緒に遊ぶことが出来ない事が寂しかった。寂しさのあまり、ラッキーがいなくなってからも母に、「ラッキーはどこにいったの?なんで死んじゃったの?」と繰り返し母に問うていたように思う。ラッキーのいなくなった犬小屋は程なく処分されてしまった。
兄と一緒にラッキーと撮った写真が残っている。側面は金属のオリでできており、天板は白い板。その板にラッキーと僕と兄が乗っかってカメラを見つめている。
この場面を母は後に油絵にしている。母にとっては忘れられぬ情景だったのだろう。

ダンボール箱に入って転がしてもらうという遊びを父にしてもらった。
「やめてよー」
といいつつ心の底から笑った。
ダンボール遊びは楽しく、一人で入っていることもよくあった。暗い中から外を窺うというのがなんであんなに楽しいのか。
父にはヒゲジョリジョリもよくやられた。
「やめてよー」
とやはりいっていたと思うけれど、うれしかった。きっと父も楽しかったのだと思う。

冬になると近所で焚き火を囲んで、焼き芋を作っていたのを思い出す。大人が火の管理をしていたのだろうけれど、空き地の真ん中を使っての焚き火。落ち葉を山のように集めて燃やす。近所の子達も集まって火を取り囲むようにして丸く出来た円に兄と参加していた。普段遊ばない年代の子もいたり、その親もいたり、焚き火の発する熱風が顔に当たって痛かったけれど、楽しかった。みんなで火を見つめて、火に突っ込もうとする子供を親が抑えて、なんかの儀式のようでもあった。焚き火の真ん中にあったであろう焼き芋を食べた記憶は消えている。

 幼稚園に通うようになり、友達、集団というものを意識し始めた。山の中にある自然がむき出しの園庭では、崖に登ったり、段差を飛んだり、泥遊びをしたりした。山の合間に作った幼稚園、今ではコンプライアンス的にNGな場所もたくさんあったと思うが、子供的には楽しい場所であった。(普通に崖から落っこちたり、泥水に突っ込んだり、葉っぱを掴んで手を切ったり、崖をみんなで協力してくり抜いたり、その土を使って泥団子を作って下駄箱につっこんだり、ヘビが出たり、掘り出せばこの頃の楽しかった記憶はまだ出そうだ)もちろん定番のすべり台やブランコ、砂場も大好きだった。

年中の頃、朝の遊び時間中、年少の男の子が泣いているのが気になった。
「ママがいない」
という様なことを嘆きながら、延々と泣いている。
僕はそんな事よりももっと楽しいことあるのに、なんで泣く必要があるのだろうと疑問に思っていた。
朝、制服からスモックに着替える時に間違えて友達のスモックを着てしまい、とても恥をかいた。
「あれ?大和田くんK君と同じスモック着ているんだね」
とUくんやIちゃんが指摘した。
その時に初めて僕は自分の間違いに気がついた。怪物くんのワッペンのついたスモックはまさにK君の物だった。


 

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