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青が破裂する

  破裂しそうな青に、ディーゼルの音と融けてしまいそうだと思った。

  厭になってしまうくらいに、よく晴れた日だった。全く校則通りに、横の折り目を識らないスカートの裾が、塩味の少ない海風に微かに翻っていた。こつ、こつ、こつ。3年履いた安物のローファーの踵が、些かひ弱に、けれど確かに乾いたアスファルトを踏む音が、人気の少ない田舎道に響いた。その跡は当然残るはずもなく、歩いた轍はその傍から蒸発していく。昼下がり。海街。赤いリボンと、殆ど空っぽの鞄。朝だけはすこし混んでいる、7時台の路線バスを態と乗り過ごして、もう4,5時間が経った。識らないだろうな、あなたも、あの人も、いつもの時刻の家を出たわたしが、独りこんな街外れの路地を彷徨っていること。真四角の教室の、冷たい廊下側の席に座っていないこと。今日は期末テストの中日で、だから日光を吸った真っ黒な肩掛けの鞄がいつもよりも大分に軽くて、中身がからからと鳴った。テストは嫌でも半日で家に帰れるだなんて浮足立ったクラスメイトの声を、昨日の夕方に、聞くともなく耳にした。やっぱりあなたたちは識らなくてもいいんだよ、と投げやりみたいに思った。

 僅かに高く、鴎の遠く啼く声がした。
 どこかの家からだろうか、空腹を擽る香りがした。
 坂道の向こうに、厭味みたいにさんざめく真っ青な海を見た。
 翳らない日光が、短く影を描いていた。

 本当は、別段何の不満も無かったんだ。多分。
 肩の長さに切り揃えた髪が、僅かにふわりと風を纏った。古びた校舎と家を往復する生活も、少ないともだちも、用事があれば会話する程度のクラスメイトも、家族のことも、この寂れた海街も、片耳のイヤホンから流れる変わり映えのない音楽も、何が不満なの、と聞かれても正味、答えられる自信なんてないのだ。恵まれていないなんて思ってない。そんな単調な毎日に、疑問だって感じていなかったと思う。どうせもう数か月できっとこの街を出て、わたしたちは何処か別の場所で呼吸をする。興味がないような顔をして、時折肩をぶつけるのだろう。来るその日に怯えながら、駆り立てられながら、赤本を開いたり閉じたりなんかして、期待半分にその日を待っていた。別段勉強だって好きでも嫌いでもないし、順当に行けば描いた通りの生活になるはずではあった。けれど。

 唯手を引かれるように、この街から、この生活から逃げ出したくて。そして、何処か遠くへ行かなければいけないと、急き立てられるような焦燥感を、時たま感じていたことは確かだった。うまくは言葉に出せないし、誰にだって言ったこともなかったのだけれど。

 だからこれは本当に衝動で、ぱっと脳内に青が溢れて、支配されて、消えて、四角い空を浮かべた。今日だ、とどうしてだか思った。朝7時半、栗皮色のローファーをつっかけて、いつもとは逆に角を曲がった。夏の入り口の香り、まだ本調子でない熱気が肌に纏わりついた。往き方だって判らないあのコンクリートの街に、往かなければと思った。それから何本かバスを見送って、少し悩んだ振りをして、やめようかなんて思っては、それでも遠くへと希って彷徨って時間が経っていた。学生のわたしには持ち合わせにも余裕がないし、時間だってどんどんと減ってゆく。道端の猫が欠伸をした。視線を遣ると身を翻した、その躰をぼんやり見詰めて溜息をついた。やっぱり無理なんだと、ふつふつと諦観が奥底に芽生えだしていた、その時だった。

 些か大仰な音を立てて扉が開いた。ぱっと弾かれたように顔を上げる。車掌の気だるげな声。ローファーは自分でも驚く程迷うことなくステップを踏んだ。乗車券に12の文字。ディーゼルの音、排気ガスの匂い、がらんどうの車内、柔らかく、けれど確かな熱を持って窓際と頬を刺す日光。表示には、ひとりでは多分降り立ったことのない、大きな駅の名前が記されている。それはまるで、何処へでも往けますよ、とでも言いたげだ。何処へでも。本当は往く当てなんてない。行きたい場所だって、本当はない。誰かに逢いたいわけでもない。やっぱり意志なんてないまま、景色が後ろに流れてゆく。小さな乗車券を握りしめた左手がじわり、と汗ばんだのは、薄汚れた窓硝子に屈折した陽光の所為か、今日放った成績の所為か、それとも高揚しているからだろうか。何処にも往けないなんてうそ、嘘だったんだ。ぼんやりと作ったプレイリストから、アップテンポな曲が流れている。バスはがたがたと軋みながら、海と空の青を裂いて往く。いまは、今だけは、わたしだってこんな風に飛べるんだ。名前も識らないあなたのように。

 さようなら、今日だけ。

 今日だけは、わたしはこの街にいない。今日だけは何処にもいないわたしになります。

 影は少しだけ左に長く、きっと今日だけは、この海街に別れを告げるのだ。





お題「晴れ、女の子、券」
お題をお借りしたサイト様(どこまでも、まよいみち。)三題噺スイッチより
書いた人 栃野めい(Twitter:@zigzz__)

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