社会人になって初めての上司に、転職することを伝えた時の話
社会人になって、初めての上司は女性だった。特殊な業界メーカーとして、当時は珍しかったと思う。
誰よりも仕事をこなし、新入りの面倒も見ながら、客先との交渉も引き受けていたその人は、双子を含む3人の子どもと、引きこもりの旦那がいると言った。
旦那はずっと家にいるのに、洗濯物の取り込みすらやってくれないの、と自虐的に笑う何もかもが、私の想像の上をいっていた。
朝、始業時間ギリギリに滑り込んできては、定時の1時間前に早口で伝言を残し、子どものお迎えに走り去っていく。秋にやってくる猛烈な台風みたいだと思った。
それでもその人は、部署の誰よりも頼りにされていた。パートの人も、現場の人も、部長も、その上の偉い人も、みんな、何かあれば必ずその人に聞きにくる。
よく、その人が工場に行くのについて行った。
「大事なことは直接伝えに来たほうが、結局スムーズに進むの」
「あそこはリーダー同士が仲悪いから、お互いが関わらないように上手く調整した方が面倒くさくないの」
工場を早歩きで移動しながら、経験で積み重ねられてきたクリティカルな情報を、複雑な人間模様を絡めながら惜しみなくインプットしてくれる。
単なる業務知識だけでは不十分だと早々に気づかされた。
◇
現場のミスを、担当リーダーが謝りに来たことがある。ただでさえ目が回る忙しさの中で、余計な仕事が一個増えることを意味する。
それなのに、その人は
「珍しいですね、いつも作業が丁寧なのに。大丈夫ですよ、こちらで何とかしておきますから」
そう言って、担当リーダーが帰った後、こう続ける。
「こういう時こそ笑顔でね。今度、困った時に助けてもらえるから。借りができたってこと」
そう言ってニヤリと笑うのを見て、かっこいいと思った。
◇
会議では、何でもはっきり言い切る。周りのおじさんたちからは「気が強いね」って、感心してるのか嫌味なのか分からない感じで言われていた。
「男が発言すると雄弁だって言うくせに、女が発言するとただ気が強い女って言われるのが気に食わない」
そうやって、パートの女性陣との立ち話で愚痴をこぼすこともあった。
毎日たくさんの人から相談されて、対話して、ぶつかって、たまに愚痴をこぼしながら、いつも早歩きで周りを巻き込んで進んでいく姿が勇ましくって。
それを、私はずっと隣で見させてもらった。
◇
1年が経つ頃の人事異動で、社内がざわついた。
その人が、海外転勤になったのだ。3人の子どもと引きこもりの旦那を連れて。
彼女の異動をチームで見送ったのと同じ頃、私は転職を考えたいた。
その意思は固かったけれど、ただ一つ気がかりだったのが、その人に、何一つ恩返しができなかったこと。教えてもらったばかりの身で去っていくことに、ひどく申し訳なさを感じた。
◇
退職日が決まったあと、新しい土地で働き始めたその人に、転職の報告のため、謝罪文にも近いメールを送った。
向こうはとっくに夜だっていうのに、すぐに返信が来た。
職場を去っていく部下に、上司は普通、なんて声をかけるのだろう。
「残念だけど今後も頑張ってね」とか「新天地での活躍を」とか、そんな言葉がうっすら浮かんで、メールを見て吹き飛んだ。
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そうやって、自分の道を進めるのはすごいと思う。何にも申し訳なく思うことはないよ。だって、世界はあなたを中心に回ってるんだから。
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また、私の想像の上をいく。
私が世界の中心だなんて、ちょっと図々しい感じもするけれど、辞めることが職場に広まって、気まずく過ごしていた私には、願ってもない言葉だった。
そのメールは、そっと印刷して持ち帰った。
海外勤務を経て、あの人はどうしているのだろうか。今でもたまに思い出しては、彼女に恥じない自分でいたいと心に誓う。
美味しいおやつを食べたい🍪🍡🧁