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彼氏

「コーヒーを一杯。」

 ジャズの流れる静寂の中、店員にそう告げて、窓際のカウンター、右から一番目の席、向かいの牛丼屋が見える位置に腰掛けた。

   遅めの梅雨は今週の水曜日から始まって、シンシンと、粛々と振り続けている。とりわけ繁盛しているわけではない店内は、幸薄顔のサラリーマンと、アンニュイなOLが角砂糖を入れたコーヒーをかき混ぜている。
 
 窓の外には、帰路に着く傘の群れが忙しなくひしめき合って、さながら車窓から流れる景色のように、カフェの窓から流れ去っていく。中にはカバンなんかを傘にして、足早に走り去る人なんかもいて、ニュースを見なかったんだなとか、傘でも盗まれたのかなとか、くだらない想像にうつつを抜かして、持て余す時間を消化していた。

  「お待たせしました。」と、店員が覗き込むようにコーヒーを出す。満ち満ちとそそがれた琥珀色の液体は、私の顔を写して、ゆらゆらと歪んでいる。
 
 最近の私といえば、別に大したことがあった訳でもなく、可もなく不可もなくといった塩梅で、漠然と、目標もなく、毎日の日課という名のマニュアルを、ただただ、機械的にこなしている。
 
 七時に起床して、耳の焦げたパンと、水出しの麦茶で朝食を済ませて、軽くメイクなんかして、会社に行って、だらだら帰宅して、お風呂上がりにゆず茶なんかを飲んで、読みかけの小説を二ページばかり読んで、気絶するように眠りにつく。あまりにも味気がなくてつまらない。こういうのが「普通」てやつなのだろう。
 
「普通が一番」なんてことを言う人は、この世にごまんといるが、人間とは、現状から異常を渇望する生き物であることを、忘れてはいけない。

 私はそう思うのだ。

 
 しかし、私だって「普通」が嫌いな訳では無い。いや、嫌いでは無かった、が正しいのだろう。半年前にいなくなった、というか失踪した彼氏(面と向かって別れた訳では無いので「元」はつけていない)は、とにかく変な奴だった。なにか掴めないような、飄々とした男だった。

 自分の事を「ワシ」と言い、爪は二ミリ伸びると必ず切って、タバコは四時間ピッタリの間隔で二本吸って、セックスは毎回二回して、毎日必ず決まったコーヒーを六杯飲み、朝はパンを食べて、夜はショートケーキをいちごから食べる。
 
 少し頭のおかしい奴だと、周りからは言われていたが、私は彼に、そこはかとない魅力というか、それこそ「異常」というやつを感じていたのだ。日常を壊すようなこの男に、どうしようもなく惹かれていたのだ。この男と添い遂げるのも悪くは無いとも、思っていた。
 
 だが、あくる日の晩のこと、事件は起きた。彼のしっとりとした背中に肌を寄せていた時の事だ。
 
「しまった、」
 
 と彼は小さな叫びをあげた。
 
「どうしたの?」と眠たげに聞くと、
 
「コーヒーを五杯しか飲んでいない」
 
 と、至極どうでもいいようなことで取り乱している。
 
「今から飲めばいいじゃない」
 
「もうダメなんだ、今日はもう終わってしまった」
  
 枕元の時計は、零時を回っていた。
 
 そこまで騒ぐのならと、コーヒーを一杯入れて、彼に飲ませたのだが、次第に諦めたような顔になり、眠りについた。
 
 それが、私が見た彼の最後の姿だった。「ごめんね」の書き置きを残して、何処に行くも告げずに、彼はいなくなった。
 
 それからというもの、時々思い出しては、物思いにふけるようになった。もしかしたら、何か怪しげな契約でも結んでいたんじゃないか?とかそんな事を考えてしまう。だが、生憎そんなファンタジーな世界を信じるほど、私はピュアではない。
 
「あっ。」
 
 声が出た。向かいの牛丼屋、静かに佇む男を見て、私は思わず声が出た。
 
 彼がいる。
 
 痩せこけてはいるが、彼がいるのだ。私は、ヒールが折れる勢いで、店を飛び出した。彼の名前を叫びながら走っていくと、彼は不思議そうな顔でこちらを見ていた。
 
「ねぇ、半年もどこに行ってたのよ!!」

 
 そう言うと、彼は戸惑いながらこう言った。

 
「えっと。」


 
「…どちら様?」


 
 
 焦りながら頭を搔く彼の指は、爪が五ミリに伸びていた。

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