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「撮る」ことの暴力性

こんにちは。1010です。昨年の夏からポートレイト写真を撮り続けて、先日15人目になりました。就活などで思うように動けない時期もありましたが、平均しても2週に1回は撮影をしています。(被写体を依頼してくれる皆さん、いつもどうもありがとう。)

「撮る」ことが好き

私は他者を撮影することが好きです。撮影をすることによって生じるコミュニケーションの中でも特に、以下の2点に面白みを感じています。

・自分から見えるその人の表情を共有することで、他者との関係性を相手との間で確認することができること
・カメラを通して他者を見ることで、自分の気持ちに冷静になりながら他者と自分の関係性について観察することができること

(その他私の感じる他者を撮ることの魅力については以下の記事に詳しく書いてあります。今日の話は読まなくても全然大丈夫なように描きます。)

しかし最近、写真を撮ることに伴う怖さも素直に感じることができるようになってきました。

人の写真を撮るって怖いです。

「撮る」ことが怖い

いやいや、さっき面白みがあるって言ったじゃないですか、なんて言うのもごもっともです。でもほら、「好きなこと」「面白いこと」「怖いこと」は全て同時に成り立ちうるではないですか。

写真の即時性は今までつらつらと描いてきた絵や文章とは全く違って、姿に現れる前に取捨選択をする余地がない分、それで被写体や自分を傷つけてしまう可能性があるように感じています。

1:被写体自身が、見たくなかった表情を捉えてしまう

以前は、撮り終わった写真は、帰ってから被写体の人に選んでもらって、それとは別に自分で選んだものの中から共通部分を制作として公開することにしていました。

しかし、ある撮影で、撮影後に少し時間が余ったので喫茶店に入って取り込みながら一緒に写真を選定することになりました。すると、私の思うその人の素敵な表情と、その人の満足する表情が違うことに気がつきました。それどころか、自分が良いと思う表情が、「その顔嫌いなんだよね」と言われることもありました。そうでした。コンプレックスになりうる要素は自分の体のどこにでも存在しうるのでした。自分自身も外見のコンプレックスでいっぱいであるのにそのことを上手く扱えていなかったことを何度も悔いました。

それ以来、少し時間はかかりますが、写真の選定はスケジュールが許す限り一緒に行うことにしています。「笑った時の自分の目の形が嫌い」「この表情はなんかキモい」と言ってくれた被写体の方々には感謝です。私がその写真を避けて選ぶことができる上に、私が感じるその人らしさとその要素の関わりを知ることで、「自分が見ているその人の一面のことを、その人が当たり前に好きであるわけではないのだな」と考える余地ができました。

相手が見たくない、見せたくなくて隠している一面を強制的に映せてしまうことは、写真のもつ暴力性であると感じ、怖いと思っています。一方で、私が「そんなあなたが好き」と伝えることによって、私が好きなその人の面を、その人も好きになってもらえるかもしれない、とも思っています。傲慢かもしれないけれど。

2:自分自身が、見たくなかった表情が可視化される

冒頭でも述べたように、写真を撮ることで自分と相手の関係性が可視化されます。被写体から離れすぎると被写体は不安に、近づきすぎると相手の表情に私(カメラ)が干渉しすぎたりします。たくさん撮っているうちに、自分が思っていたのと、写真に映る関係性とのずれが案外に大きいことに気が付きました。

私が思ったより近づいた方が生き生きした表情が撮れたり、いつもいるより遠くから撮ったほうが相手が綺麗に映ったりします。それはレンズの問題もあると思いますが、遠い方が綺麗に映ってしまった時には密かに傷ついたりしていました。

これは私個人の問題ではあるけれど、映ってしまったことは相手(と自分)が隠していたことでもあるから、それを顕在化させることは穏やかではありません。

3:自分が撮ったものが「わたしから見たあなた」の押し付けになりうる

これは言葉のコミュニケーションの話になりますが、例えば、「あなたのそういう誠実なところすごく尊敬しています」と伝えてしまったら、その人は私に対して「不誠実な一面」を見せたがらなくなるでしょう。不誠実であることは一般的には良くないとされますが、人間関係を構築する上で自分の良くない面を共有することを一概に良くないと言えるでしょうか。相手の意外な面が垣間見えるからこそ前進する関係性もあるはずです。

写真でも同じことがあろうかと思います。「この悪戯っぽい表情、すごくいいよね」と伝えてしまったら真面目に振る舞いづらくなってしまうし、「真顔でも美しいのいいなあ」と伝えてしまったら破顔した顔を選びにくくなってしまうかもしれません。

写真を撮るときのコミュニケーションとして、私はこの点が一番危ういと思っています。

それでも撮る

それでも撮ります。私が誰かに干渉できると実感した初めてのことだから。

ただ、傲慢で暴力的なことでもあることは、忘れずに知っていたいと思っています。

これは私の覚悟です。


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