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わたしなりの回復の仕方へ

●『ナラティブと共同性』から今日は第七章「アディクションとナラティブ」へ飛んで読む。
○この日記をはじめたのも、ある意味ではナラティブの試みだった。友人に自分の辛さを語ることで、「自分にとってそれを語ることがどういう意味があったかという方向に」関心が移った。そう、誰かに評価してもらいたいわけじゃなくて、自分のために語った。とにかく一方的に送りつけるように「言いっぱなし」だったし、わたしも「聴きっぱなし」だった。
○そこからさらにもう一歩外に出るために、わたしはここに書き連ねていった。そうした語りの場所をまた別のカタチでつくるためだったように思う。
○エッセイのような日記が、いわゆる経済文脈とは異なるアジールの役割を果たすのもおそらくは似たことを意味している。

○本書『ナラティブと共同性』第七章「アディクションとナラティブ」の中では「ひと」と「問題」を分離させる「外在化」が重要だと書かれている。これは以前もわたしが書いた「主観的に書くことを使うこと」にも似ている。ただ、このままでは外に出られない。
○新たな意味を生み出すために、新しい物語を作り出す必要がある。わたしはわたしがコントロールできないものと勝手に戦っているようだ。
 そんな戦いから降りること。自分で自分をコントロールしようとしないこと。大きな流れに身をゆだねること。

○思えば、わたしは社会の中で「強い経営者像」のようなものをより求められ、引き受けてきてしまった。金融機関支店の最年少の会長を引き受け、会社ではずっと長かった重荷が解け、次なる新たなミッションを出す必要があるが、理想と現実のギャップはほど遠い。
 わたし自身にそもそも実業家としての強いミッションはなかった。片付けることに精一杯だった。それに拡大への志向がそもそも強くない。
 アイデア型の人間ではあるし、既存事業の改善はできる。また一方でラディカルに考え抜き、世の中に新しいものを提示することには興味があるが、じゃあ、果たして経済人としてそれができているか。
 経営者としてはどうか。起業家としてはどうかという問いが常に自分に向かってくる。
 酒は飲まないし、ゴルフも下手だし、少年ジャンプより少女漫画の方が好きだ。

◎誰かが物語に縛られていることに関しては、冷静に絡まった紐を一本ずつ解いてみせることもできる。気付いていないここにも絡まっているよとこっちから語りをアシストすることもできるだろう。しかし、自分のことになるとやはりそれは簡単ではない。

◎会社のセルフブランディングを改めて今やり直すタイミングであることも重なっている。これまでの規模競争の物語から降りて、価値創造の物語に向かっている。

○わたしの中で生成された意味を、デザインや物語によって外に出す必要がある。

◎新しい意味を。これからもここに残して、あとは見つけてもらうのを待つだけだ。わたしはそれを何とかできない。物語の力で、他者を絡め取ることはしないで、とにかく今はただその時が来るのを待っている。
 それがわたしなりの回復の仕方だ。

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