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意味の呪縛

○携帯電話にいつも抜群に悪いタイミングでかけてくる営業の人がいて、会議で盛り上がっているときとか、母の死んだ日とか、卒業式の日とか、その人もわたしに嫌がらせがしたくてそんなことしてるわけじゃないんだけど、ただただタイミングが悪かったり、うまく合わなかっただけで、そういうことっていうのは人間の狙いみたいなものとは別に起きてしまう。起こってしまう。
 そうやって、しかたなく起きてしまうことというのはある。にもかかわらず、そこに人は意味を見出してしまう。
 そこに意味の呪縛がある。

◎そう、意味の呪縛というものがあるのだと思う。
 家族関係など関係が近くなればなるほどそれは特に強くなる、あるいは深い友情や村共同体的なつながりにおいても発生するだろう。依存する先との関係が不安定な場面において発生しやすい。片方が過剰に意味を見出してしまっているケースなどがある。
 たとえば中小企業などでも言える。

○パーパス経営などのようなある目的のために(意義のために)働くことを共有することは、逆に意味を肯定的に活用する姿勢でもある。
○意味は互いにそろってうまく使いこなせれば、すばらしい仲間になるが、どちらかだけが意味に囚われ、意識しすぎるているといつのまにか意味によって体が縛られてしまう。

◎これらの意味は一枚の「ラベル」の形をしていることもあるが、語り継ぐような「物語」の形をしていることもある。
 ラベルもずっと貼られていると世の中からの見え方が変わったのに、ラベルが変わっていないということもある。
 物語もいつまでも昔の物語にこだわってしまってノスタルジーの中を生きているだけのようなこともある。

○だから、いつでも今ならどういうラベルに貼り替えるか、どういう物語として語り直すか、それをこそ考える必要がある。
 今貼られているラベルや今語られている物語を大事にしつつ、いつでもそれは本当か見直す目を持ち続けることを大事にしたい。

◎おそらくこの本文は日記として書いたが、今後の意味の研究においても中核をなす考え方の一つになりそう。そういう下書きとしてもこの日記を使っていく。


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