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蕎麦屋のカウンター、青

 パスタ屋で働いていた頃のこと。
 初めて店長として赴任した店の斜向かいに蕎麦屋があった。店主と奥さんが二人でやっている小さな店で、自分は近所付き合いの意味も込めて、時折帰りに寄って晩飯を食っていた。
 鴨南蛮が美味かったのを覚えているけれど、鴨南蛮はどこで食っても大概美味いようにも思うからあんまり当てにはならない。
 店主は随分愛想のない男だった。最初に挨拶に行ってこっちが斜向かいのパスタ屋だということは知られていたから、ことによると同じ麺類屋として敵視されていたのかも知れない。

 ある時、カウンター席から店のテレビで野球の試合を眺めていたら、珍しく店主が話しかけてきた。
「……どこのファンだい?」
 どうやら野球の話らしい。
「……いやぁ、野球には興味なくて……」
「……そうかい……」
「でもまぁ、強いて言うなら中日かな」
「中日? なんで?」
「青いから」
「……そうかい……」
 それ以上は何も云って来なかった。

 愛想のない店主がようやく話し掛けて来たのに、随分雑な返しをしたものだと思う。結局この店主とは一向懇意になれず、そのうち面倒になって通うのもよしてしまった。

 蕎麦屋を出た後、同じ通り沿いの文具店でシャチハタの替えインクを買った。
 何だか顔料とか染料とかあるけれど、全体このスタンプはどっちなのかと店のおばさんに訊いたら、顔料だと教えてくれた。

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