見出し画像

車窓から(その2) 〜バッテリー・渋谷の蕎麦・裕次郎〜


バッテリー

 休日前夜はいつも夜更かしをするのが長年の習慣だが、寝過ごすようなことがあると厄介だから12月30日の夜は比較的速やかに就寝した。
 そうして翌朝は午前8時に「ふふーん」と言って出立した。18時頃には実家に到着する段取りだ。

 幾分わくわくしながら最寄駅に到着すると、まもなく電車がやってきた。こいつに乗ってまずは名古屋まで行く。長すぎず短すぎずの絶妙な待ち時間だったのでおおいに気を良くしていると、じきにiPhoneの充電用バッテリーを忘れてきたことに気が付いた。

 iPhoneは怒涛のごとく電力を消費するから、途中で充電することなく10時間の旅程をこなすとなると相当に使用を制限しなければならない。道中感じたことなどをTwitterに投稿しようと思っていたが、とてもそれどころではない。
 自分の中のわくわく感は急速に勢いを失い、代わりに「なんでこんな初歩的なミスをしたんだろうか、これではまるでクソ野郎だよ」といった、自身に対する憤りが胸中に沸き起こった。

 しかし、いまさら憤っても仕方がない。幸い愛用のペンとノート――プラチナポケット万年筆とモレスキン――は持っているのだから、今回の旅はアナログで記録することにした。

渋谷の蕎麦

 名古屋から広島までの乗車券は券売機で買えないようだったので、みどりの窓口で購入した。その際、「広島までの乗車券をくれたまえ」と言ったにもかかわらず、窓口の駅員は「すでに指定席はいっぱいで云々」と云う。新幹線ではなく在来線だと言ってやると、あぁそうですかと切符を出してきた。少しは驚くだろうと思っていたのに、これではまったく張り合いがない。或いは自分にとっては冒険旅行でも、世の中には同様のことを日常的に行う人が存外多いのかもしれない。
 ホームに出ると発車までまだ15分ばかりある。朝食がまだだったので、きしめんを立ち食いすることにした。
 立ち食い屋は各ホームにあったが、他のホームの店がすべて小屋の体裁を整えているのに対して、どういうわけか自分のホームの店だけが野ざらしだ。先刻から一人の若者がうどんをすすっているが、いかにも寒そうで見ていられない。

 全体、こんな寒空の下でうどんを食うなんて相当なうどん好きか、或いはただの腹ペコキングに相違ない。見たところそれほどうどんに情熱を傾けているようでもないから、ただの腹ペコキングなのだと結論づけた。自分はそこまで腹ペコキングではないから、隣のホームで食うことにした。

 そうして隣のホームの立ち食い屋に入ったはいいが、どういう加減か店は急に混み始め、頼んだきしめんが出てきた頃には自分の乗る電車がホームに入ってきた。時計を見ると出発までまだ6分あるものの、そうそう安穏としていられるものでもない。高校生の時分には電車の出発まで4分あれば一杯食っていたものだが、なにしろ随分昔のことだから今も同じにできるかは甚だ心許ない。

 おおいに冷や冷やしながら熱々のきしめんを急いで食った。美味かったかどうかも覚えていないが、おおよそ美味かったのだろうと思う。
 これまで入った立ち食い屋で、あからさまに不味かったのは渋谷駅のかけそばぐらいなものである。あれはひどかった。なにしろ汁が真っ黒な上、醤油の味しかしなかった。美味い不味い以前の問題だ。

裕次郎

 車輌はガラガラだったので、適当な席に腰を落ち着けて「いやぁ、一時はどうなるかと思ったぜ。おっかね、おっかね」と石原裕次郎っぽく言うシミュレーションを脳内でしていると、まもなく動き出した。
 9時10分、定刻どおりである。

to be continued...

初出:2010年1月2日『論貪日記』


よかったらコーヒーを奢ってください。ブレンドでいいです。