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老人と川

 結婚して間もない頃、住み始めた街を一人で散歩した。
 妻には地元でも自分には知らない街である。思い付くまま適当に歩いていたら、長い登り坂に出た。登った先にはショッピングセンターがあるらしい。
 坂の右側は住宅街で、左は崖になっている。崖の下は大きめの川が流れている。
 坂を少し登ったところへ十人ばかりの人集ひとだかりができていた。見ると、その中に義父もいた。義父はアディダスの黒いキャップをかぶって、サングラスを着けていた。

「こんにちは」
「お、裕君か」
「ここで何かあるんですか?」
「◯◯協会の集まりだわ」
 義父は地域の何かの協会に参加している。妻の話だと、そこのリーダー的なポジションらしい。
「ちょうどよかった。ちょっと待っとりゃぁ(待ってなさい、の意)」
「え、何ですか」
「まぁじきにわかるで。見とりゃぁ」と義父は川を指す。
 わからないまま川を見ていたら、やがて底の方から黒い大きな塊が浮いてきて、水面が見る見る盛り上がった。そうして黒い塊は水飛沫みずしぶきを上げて、水面から大きく跳ねた。

 ザッバーンと大きな水音と水柱を残し、鯨は再び水中に戻ると、そのまま川下へ泳ぎ去った。
 まさかこんなに海から離れた川へ鯨が出るとは思わなかったから、随分驚いた。

「凄いですね! あの鯨、協会で仕込んだんですか?」
「……」
 義父は茫然自失の態であった。今見たものが信じられないといった様子である。
「待っとけって、今のやつのことじゃないんですか?」
「ん、いや、まぁ、な?」

 それから自分は、また坂を登り始めた。ショッピングセンターを覗いて見るつもりだったのである。
 そうして、義父の「待っとりゃぁ」があの鯨のことだったかどうか、ついにわからなかった。


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