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恐怖

 独身時代に住んでいたアパートは、集合ポストの隣に駐車場とゴミ捨て場があった。
 ゴミはいつでも出していいと大家の老人が云うものだから、大抵いつも何某かのゴミが置いてあり、カラスや猫が散らかさないように大家さんがまとめて、金網でガードしていた。
 いつでも出していいというのは、ゴミを部屋に溜めさせない狙いだったろう。便利ではあったけれど、まとめる際に勝手に袋を開けられるので、下手なものを捨てられない。
 一度「あんたはわしがあげた食パンを、食わずに捨てたろう?」と言われて、随分決まりが悪い思いをした。
 大家さんは毎週土曜の朝にはどこかで食パンと豆腐を安く仕入れて店子に配っていた。自分はその頃自炊などほとんどしなかったから、それを食うことはほとんどなく、頃合いを見て捨てていたのである。

 ある時、出かけようとしたら、ゴミ捨て場にゴキブリが一匹いた。
 放っておいても構わないけれど、何だか気になって、殺虫剤を持ってきて吹きかけてやった。
 じきにもがき始めたのを見届けて、車のドアを開けながらふっと後を振り返ると、驚いたことにゴキブリが一匹追って来た。飛ぶのでなく、走って追って来た。
 さっきのやつなのか仲間の一匹なのか判然としないけれども、どちらにしたってこちらに敵意を抱いて追って来たには違いない。取るに足らない虫ケラと決めつけていたものが存外高い知能を備えているとわかったら、何だか怖くなった。
 それで車に乗るのをひとまずよして、真正面から殺虫剤で迎え撃ったらあっさり死んだ。
 死骸を眺めながら、こいつは日ノ本一の兵ひのもといちのつわものだったと、大いに感心した。

 そのまま車で出かけた。コメダ珈琲店へ行ったのだと思う。
 コメダの珈琲は美味いと思わないが、店は入りやすくて落ち着く。


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