呪文
社会に出て一番初めは、チェーンのパスタ屋で働いた。
店舗に配属されて1週間ぐらいで、先輩の西村さんから包丁の使い方を教わった。最初に切ったのはムラサキキャベツだったのを覚えている。
西村さんにお手本を見せてもらった後、「こうですか?」と言ってトントンと包丁を下ろしていたら、三回目のトンで痺れるような痛みが走り、拇指の先の肉が体から離れた。
驚いて、こんな仕事に就いたのがやっぱり誤りだったと職場を大いに恨みながら、店の裏で止血していたら、年輩のパートさんがやって来た。
「私、血を止める呪文を知っとるけぇ、やったげよう」
随分都合のいい呪文があるものだと感心したけれど、こちらはそれどころではない。いらないと云うのも面倒くさくて放っておいたら、パートさんは自分の傷に手をかざしながら、何だか呪文を唱え始めた。きっと、傍目には漫画みたいな絵面だったろうと思う。
そのうちに、ひとまず出血は止まった。パートさんは呪文の力で血が止まったようなことを云ったけれど、自分の止血と凝血で止まったものに違いなかった。
傷が存外深いようだったので、その後で近くの病院へ行った。
病院で医師から「切れた肉はどうしました?」と問われ、「捨てました」と答えると「取っておいたらくっつけられたかも知れないのに、もったいない」と残念がられた。それで、「この次は取っておきます」と言っておいた。
指を包帯でぐるぐる巻きにされて、しばらくは仕事も生活も随分差し支えた。
この日以来、休みのたびに呪文のパートさんが「百さん、ちょうど偉い先生が広島に来るけぇ、お話を聞いてみん?」と言ってくるようになって、辟易した。その都度適当なことを云って断っていたけれど、じきに横浜へ異動になったので助かった。
よかったらコーヒーを奢ってください。ブレンドでいいです。