刀とオムライス
オムライスを玉子で包む必要性について、随分以前から疑問を感じている。薄く焼いた玉子で包んであるから美味いとは、別段感じない。チャーハンみたいに玉子も混ぜて火を通せばいいように思えるのである。
一度マッコイ君と入った喫茶店で、女子店員をつらまえて、「一体、オムライスというものは、ごはんを玉子で包む必要があるのかね?」と訊いてやった。
すると女子は「は?」と言うような顔をした後、「包まないとオムライスにならないじゃないですか」と言った。半笑いである。どうも、おっさんが構ってほしくてわけのわからないことを云い出した、きっしょいけど客だし、しようがないから答えといてやろう、きっしょいけど、みたいな調子だ。
至極真面目に質問したのに、そんなふうに曲解されるようではつまらない。「どうもありがとう」と言って追い払った。
全体、玉子で包むメリットの有無を問うているのに、包まないとオムライスにならない、では噛み合わない。問題としていること自体を答にするのだから議論にならない。
以前師事した居合の先生も、こんな感じの噛み合わない人だった。
自分が入門した流派には、明治期に分派した別流派があった。先生はどういうわけか、その別流派を随分目の敵にしており、ことあるごとに批判をしていた。
批判は自由だが、主張の内容はいつも「あれはインチキだ。ニセモノだ。なぜかというと我々が本物だからだ」というもので、どうも説得力がない。それなら先方だって同じことが云えるだろう。
一度、こちらが本物だという根拠を訊いてみたら、「我々の宗家が正統な宗家だからだよ」と返ってきて、返答に甚だ困った。以来、その話は振らないことに決めた。
全体、よその流派をつらまえてどちらが本物と決めつける必要もないだろう。そう考えたら、玉子で包む理由も段々どうでも良くなった。
よかったらコーヒーを奢ってください。ブレンドでいいです。