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百卑呂シ随筆

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2023年9月の記事一覧

気づいたら、いなかった

 小1の時に転校生が来た。  先生が「新しいお友達です」と言って黒板に「さえだのりふみ」——仮名——と名前を書いた。くっつけて書かれたものだから、最初は「さえだの・りふみ」だと思った。「りふみ」とは珍しい名前だなと感心したが、実際は「さえだ・のりふみ」だと段々わかった。  さえだとはあんまり趣味が合う感じではなかったけれど、存外一緒に遊んだ覚えがある。彼の家では庭に小屋を作ってうさぎを飼っていた。  一度、さえだのお父さんに連れられて、近くの山へ何かの葉っぱを採りに行った

カレーとソース、祖母の味

 父方の祖母が作るカレーは黄色かった。祖父母も父も叔母も叔父もそれにソースをかけて食べていた。  あるとき叔母が「裕君もソースかける?」と言ってくれたが、カレーにソースをかけるなんて考えたこともなく、何だか冗談みたいに思えたから、「カレーにソースかけるの? えぇ? へーんなの」みたいなことを云って断った。善意で訊いてくれたのに、随分悪いことをしたと思う。  カレーにソースをかけることについて、母はあんまりいい顔をしなかった。子供の時分にはわからなかったが、その辺りは恐らく嫁

ウルトラ警備隊と蒟蒻

 小2の時分には、ほとんど毎日イカサキ君と遊んでいた。  イカサキ君は玩具を随分たくさん持っていた。当時、新しい玩具のCMが流れると、実物は大抵彼の家で見たように思う。恐らく彼が一人っ子だったからだろう。自分はそれがいつも羨ましかった。  あんまり羨ましいものだから、家に帰ってから同じ玩具を親にねだると、「よそはよそ」から始まって、そんなことを云うのならもうイカサキ君と遊ぶのを止しなさい、と云われる。それを云われてはこっちも困るから、羨ましくても黙っておくことに決めた。  

カレーと横浜と悪意

 大学時代、音楽仲間の辻が随分格好いい曲を作ってきた。 「君、何だかボン・ジョヴィみたいで格好いいじゃぁないか」 「そうだろう。そういうイメージにするつもりで、服部緑地でカップルがたくさんいるのを眺めながら作ったのだよ」  辻の中では『ボン・ジョヴィ=カップル』となっているらしい。 「それはご苦労だったね。しかし君のような長髪メタル野郎がいきなりギターを持って側に来たのなら、きっと気持ち悪かったろうね」 「あぁ、すぐにみんな逃げて行ったよ」  他人の雰囲気を壊すという行為が

カレー焼き、感情

 小5の時、町内に新しいショッピングセンター『ひろでん』ができ、早速行った母がカレー焼きとクリーム焼きを買ってきた。  カレー焼き・クリーム焼きは大判焼きを細長くしたような形で、中にそれぞれカレー、カスタードクリームが入っていた。どちらも美味くて、その後もちょくちょく買ってもらった。確か、1個50円ぐらいだったと思う。  ある時、イカサキ君が家に遊びに来た。イカサキ君とは小2で同じクラスになり、「今日遊べる?」と声をかけてきたのがきっかけで仲良くなった、当時一番気の合う友人

具無しカレーの記憶

 大学の帰りに学科の友人らと一度、正門前の “TARO” で食事したことがある。もう外が暗かったから季節は冬だったろう。  店主の奥さんがカレーライスを置いてキッチンへ戻った後、佐伯が「具が、無ぇ…」と言った。佐伯は女子だが、男のような物言いをした。  みんな別の話に夢中で誰も反応しなかったから、もう一度云うかと思って見ていたが、佐伯は云わずに食べ始めた。そうして「あぁ、美味い」と言った。やっぱり誰も反応しなかった。  具が見当たらないのはケチっていたわけではなく煮込んで

浜名湖の夕暮れ

 28の時、パスタ屋の店長を辞めた。  当時住んでいた川崎から古巣の大阪へ引っ越すまで2週間ばかり、有休消化をしながら気楽に過ごした。  この2週間はずっと夜明けに寝て、昼過ぎに起きた。そうして近くのパチンコ屋へ行っていた。  パチンコ屋ではあまり長居せず、1万円ぐらい出たところで止めて帰るというスタイルで毎日着実に勝っていた。  10日目に、いつも打っていた機種がなくなった。他の機種を打ったがどうも勝てない。翌日も同様で、さすがにツキも終わったかと思ったけれど、最後のつも

ルパン三世とのお別れ

 子供の頃、ルパン三世のコインホルダーを使っていた。今の手帳型スマホケースを一回り小さくした感じで、黒地に金色で拳銃を持ったルパンが印刷されていた。随分気に入って、家の中でも持ち歩いていたのを覚えている。  開くと中には100円・50円・10円硬貨を種類別にはめ込むプラスチック部品がついていた。そういうコインケースは当時子供向けにはポピュラーだったが、500円が硬貨になったのと、消費税導入で5円や1円の出番が増えたのとで見かけなくなった。  ルパンでなくていいから、ああいう

生姜の入ったカレーとハシビロコウ

 大学時代に通った喫茶店がいくつかあった。多分一番よく行ったのが『カフェ・ド・ギャルソン』だった。  落ち着いた感じの良い店で、紅茶の種類が随分豊富だった。自分には違いがわからなかったから、いつも名前を言いやすい『アフリカンジョイ』を注文していた。  一方、食べ物のメニューは簡素で、トースト、サンドイッチ、カレーライスぐらいしかなかったと記憶している。  カレーは随分美味かった。他のお客が「ここのカレーはねぇ、本当に美味いのだよ。家で真似しようとして色々やってみたのだけれど

二度と行けない店

 10年ぐらい前、仕事で東京へ行った時のこと。  現地駐在のヘルシング氏と午前中に駅で待ち合わせ、別の用事を済ませて事務所へ行くとちょうど昼になった。 「君、これからメシにしようじゃないか。近くにいい店があるのだよ」と言われるままについて行くと、大きい神社の向かいの定食屋に案内された。  カウンター席に並んで座り、ヘルシング氏に倣って日替わり定食をそう云うと、じきに味噌汁とサラダと何かもう一品と『あいがけカレー』が出てきた。白米の上に半々でカレーと牛丼の具が半々で乗ってい

昭和の系譜とカレー

 最近、カレーについて色々思い出している。特に理由はない。  パスタ屋に勤め始めた頃、ブカティーニをカレー味のミートソースと和えたメニューがあった。昭和の喫茶店の定番メニューを麺だけ専門的にした感じである。本格的なパスタ専門店を謳いながらカレー味に頼っていることに、何だか違和感があったのを覚えている。  ある時、そのソースをドリア用のバターライスにかけて食べたらきっと美味いだろうと思って試してみた。要はキーマカレーなので果たして不味くはなかったけれど、賄いではあってもわざ

大自然とカレー

 高一の時、林間学校で班ごとに晩飯を作ることになっており、何だか面倒くさいと思ったから、飯盒で米を炊くのは仕方がないけれど、料理は湯を沸かしてレトルトカレーでいいんじゃないかと班のメンバーに提案したら満場一致で採択された――実際は一人だけ不服そうだったが、多勢に無勢で押し流された――。  それでみんなで近くのスーパーへ行って、思い思いのレトルトカレーを買って来た。自分はククレカレーを買ったように思うけれど何しろ昔のことだから定かでない。ボンカレーだったかも知れない。  当日

俺を倒してからだ。

 大学2年の9月いっぱいまで学生寮に住んでいた。個人経営の寮だから色んな学校の学生がいた。大風呂があって、朝夕の食事付きだった。  もう記憶が随分あやふやだけれども、木曜の夕食はカレーが多かったように思う。  食堂にはテーブルが縦につなげて2列並べてあり、各列に1個ずつ大きいお櫃と味噌汁の鍋が置いてあった。そうして家具調テレビが置いてあった——当時(90年代初頭)でもすでに珍しいアイテムだった——。  ある時、夕食のカレーをお代わりしようとしたら、向かいに座っていた宮内が「

過去にけりをつける

 昨日の朝、書類を書こうとしたらボールペンのインクが途中で切れた。インクを使い切るのは、何だか達成感があっていい。  以前、喫煙者だった頃はライターのガスを使い切っても同じ達成感があった。 ※  社会に出たての頃——まだキャッシュレス決済などなかった時代——、レジ前でもたつくのが嫌だったから、買い物の際にいつも紙幣で払っていた。  例えば600円払うのに1000円札を出すのはワンアクションだけれど、小銭だと100円玉なり500円玉なりを探すところから始めなければならない。