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アウトサイダー・ドリヴンズ。

 思うに、アタマの良し悪しが人生の成否に直結するとは限らない。
 優秀な奴でも順風満帆には程遠い人生を歩むこともあれば、バカでも成功者と呼ばれる奴だってごまんと居る。

 さらに言うと、そもそも人生の成否ってやつ自体が当の本人にとっての幸せとは無関係だ。
 何がそいつにとっての満足であり、納得であり、幸福であるか。どれだけカネを稼いで地位を得たとしても、その答えはそいつ自身にしかわかり得ない。たとえそいつの親であろうとその答えを定義できないし、定義しようとすべきでない。

 あいつと話すたびに、そんな事を考えさせられる。


― ― ―

 俺が初めて海野と出会ったのは、大学生活も終わりの頃だったと思う。
 六畳一間の下宿に一人で住んでいた俺は、人恋しくなるたび友人の津田沼の家に足を運んでいた。津田沼の家はルームシェア形式のアパートで、津田沼の他にも三人の友人が住んでいた。そこに行きさえすればいつも誰かが居てくれたから、寂しさを紛らわすにはもってこいの場所だった。

 その住人の中に、海野も居た。
 生まれも育ちも生粋の大阪人ではあるが、一般的な大阪人のイメージとは異なる無愛想な男。強面とガタイの良さから来る近寄り難い雰囲気に俺が萎縮していた事もあり、互いに打ち解ける事はなかった。それに、俺が津田沼達の家に行く時間帯のほとんどに海野はバイトを入れていたから、顔を合わせる事自体が稀だった。
 ある日津田沼達の家に遊びに行くと、フライドチキンを振る舞ってもらえた事があった。バイト先のケンタッキーで海野が安く買ってきた品だと言う。だが、当の海野はその日も不在だった。

「海野、ケンタッキーで働いてんだ」

「うん、店の中じゃなくて宅配だけど。いっつもバイクでそこら辺回ってんだって」

 ウィングピースを齧りながら何の気なしに呟いた言葉に、ドラムピースを片手に持った津田沼が応じる。津田沼の歯型が付いたドラムピースはすでに半分以上が欠けていた。

「今更聞くのも何だけどさ。海野ってどんなヤツなの」

「え、マジで今更じゃん。君、この家に出入りするようになってもう半年は経つよね?」

「半年経とうが知らないもんは知らないんだからしょうがねえだろ。当の本人とは滅多に会わねえし、会ったところでとっつきにくい感じなんだから」

「んーまあそれもそうかもね。一緒に住んでる俺らはともかく、君はあいつと接する機会なんてそう無いもんね」

 口に放り込んだドラムピースの残りをひとしきり咀嚼して飲み込むと、津田沼は再び口を開いた。

「あいつはアタマ良いよ。入学してからずっと、大学のGPAは五段階評価で四を切ったことが無いんだって。どの学期でも、ずっと」

 いともあっさり言い放たれた津田沼の一言に俺は震撼した。
 実を言えば、俺も在学四年間の通算GPAは四を上回っている。秀・優・良・可の評価に換算すれば軒並み”優”を取り続けている事になるわけだが、それは飽くまで通算の話だ。実際、やる気のなかった学期では四を切ったことも有る。
 正確に言うと、一・二年生時の好成績の貯金を今まさに食い潰している状態だ。入学以来常にトップクラスの成績を叩き出していたが、二年生の終わりに受験した国家試験に落ちてからはモチベーションと自信を喪っていた。俺も意外と大したことがないんだな、自分で思っていたほど俺は優秀じゃねえんだなという負け犬根性が染み付いて以来、どこか斜に構えるようになった。心の底の底の部分で、てっぺんが取れないなら努力しても無駄だと思うようになっていた。
 だが、海野は全学期で四を上回っているという。しかも聞いたところによると海野の学科は理系だ。文系の俺と違って、理系学科の連中は難易度の低い共通科目を履修科目に組み込める余地が少ない。そういう中で各学期オール四以上評価を取得するということは、履修科目のほとんどが難解な専攻科目という状況で常に”優”以上の評価を取得してきたことを意味する。同じ四以上評価でも明らかに俺とはモノが違っていた。

「マジかよ。だとしたらすげえ話だな」

「本人が言うには『逆になんで皆は出来でけへんねん。俺がすごいんやなくて周りが勉強しなさすぎなんや。一体何しに大学に入って来とんねん』だってさ。頭が上がんないよね、ストイックすぎてさ」

 津田沼は地頭こそ抜きん出ているが、俺よりも更にモチベーションが低い。心底頭が上がらないという調子で苦笑しながら海野の話を続ける。

「でも、別にガリ勉一筋ってわけでもないんだよね。海野は」

「ああ、実際こうやってバイトしてるわけだしな。ロクにバイトもしてねえ俺とはエラい違いだわ」

「いや、言いたいのはそういうんじゃなくって、あいつの趣味の話」

「趣味?海野の?」

「そう。あいつね、結構なゲーマーなんだよ。家に帰ってきたら大体はゲームして過ごしてるね。”Fate”みたいなストーリーもののギャルゲーとか、”フロム・ソフトウェア”のアクションとかやり込んでんの」

 俺が海野に抱いていた武骨なイメージとはかけ離れた趣味だ。意外な事実に面食らったものの、多分にオタク気質な俺にとっては好ましい事実でもあった。取っかかりの無さそうな海野との接点が見つかったような気がした。
 今度海野と会ったら、ゲームなりマンガなりのオタクコンテンツを引き合いに出して話しかけてみよう。そう思う俺をよそに津田沼は話を続けた。

「あとはアレだね、バイク。海野の一番の趣味って言ったらこれ」

「バイク?自転車の事か。それとも単車?」

「単車の方。ときどき他の友達と峠攻めみたいな事してるらしいよ。コーナリングの曲がり方とか何とか、速く走るテクニックを色々追求してるんだって。ケンタッキーの宅配も趣味と実益を兼ねてる感じなんじゃないかな」

 あいにく俺はバイクに無知だし興味も湧かない。今後海野と話す事があっても、そちらの方で話題が広がることは無いだろう。


 そう思った瞬間、突然音が耳に飛び込んで来た。
 玄関のドアの開閉音。続けて施錠音と、俺たちの居る部屋に向かってくる足音。足音が止まるか止まらないかのうちに間仕切りの襖が開け放たれ、音の主の姿が顕わになる。
 海野だった。

「おう、帰ったで津田沼」

「うん、お帰り。今日バイトなんじゃなかったっけ」

「今日は早くに上がれたわ。それはそうと、珍しいのがんな」

言いつつ俺を見遣る海野に津田沼が説明する。

「ああ、今日は竹井(俺)君来てるから」

「見ればわかるわ。まあゆっくりしてってや、手ェ洗ってくるわ」

 挨拶を返す間もなく海野は身を翻して洗面所に向かった。相変わらず取り付く島もない。
 洗面所の流水音を聞きながら、俺は立ち上がり席を辞する旨を津田沼に伝えた。バイトで疲れた海野はこの部屋で津田沼と歓談するつもりだろうが、よく知らない俺がその場に居ては互いに気疲れするだろうと思っての事だった。津田沼もそれを察したのか、特に引き止める事もなく了承する。

 だが、部屋を出て間もなく、手を洗い終えた海野と出くわした。

「あれ、もう帰るんか」

「うん。よく知らん俺がいるせいで気を遣わせるのも悪いと思って。海野がバイト帰りじゃなかったら居させてもらうけど、仕事で疲れてるのに居続けるのは忍びないわ」

 正直に告げる俺に海野は苦笑する。

「気にしいやなあ。まあ正直その方がありがたいけどな。また来てや」

「うん。ケンタ美味かったわ、ありがとう。勝手にゴチになってて悪いな」

「ええねん、社内割で安う買うた代物やから。じゃあまたな」

ああ、と言いかけたところで、何を思ったかひとりでに言葉が飛び出た。

「海野さ、ゲームが好きって聞いたんだけど」

「は?――ああ、津田沼にか?」

「うん。その――」

一瞬言い淀んだ後、口にした。


「”Fate”、どのキャラが良いと思う?俺はライダーさん推しなんだけど。お姉さんキャラが好きだから」

 虚を突かれた様子で海野が固まる。
 一瞬の後、くっくっという笑い声とともに答えが返ってきた。

「俺もライダー派や。わかっとるやんけ」

 まあ、またゆっくり話そや。
 そう言い残して海野は津田沼の部屋に入っていく。俺もそれ以上は言葉を継ぐことなく津田沼達の家を出た。


 それが、俺たちの出会いだった。


― ― ―

 俺が海野と本格的に交流を持ち始めたのは、それから二年後のことだった。

 俺と津田沼、そして海野は揃って大学院に進学した。三人ともに各々の専攻分野に進学した点では共通しているが、その立ち位置はわずか二年の間に随分と変わってしまった。
 まず俺について。何の覚悟も無くモラトリアムの延長線のように進学した俺は、当然の帰結として落ちこぼれた。その無能さと怠惰さ故にいつも周囲から白眼視されていた。それまでの人生で積み重ねてきた自信や勢い、粘り強さやガッツのような精神的遺産は尽く散逸していた。かつての優等生は貴重なカネと、それ以上に貴重な二十代の時間を浪費する穀潰しに成り果てた。余程退学して働こうかとも思ったが、モラトリアムに浸りきった事で肥大化した惰性と俺の大成を願う親の期待がないまぜになって、二進にっち三進さっちも行かなくなっていた。
 次に津田沼。こいつは俺とは対照的に、大学院でめきめき頭角を現していった。本人の中で強烈な意識改革が行われたのか、まるで生まれ変わったかのように勉学に打ち込み、そして誰をも寄せ付けぬ実力と発言権を身に着けていった。院内ヒエラルキーの頂点に位置する津田沼が視界に入るたび、ヒエラルキーの最底辺に堕ちた俺は絶望に暮れていた。もはや嫉妬する気力すらも湧かず、ただただ塗炭の苦しみに塗れていた。
 そして海野。


 海野は、大学院を辞めた。


 こうして書いている今も津田沼や海野とは付き合いが続いているが、海野が辞めた理由は未だに本人に聞けていない。何とはなしに、そこは軽々に触れてはならない領域だという気がしているからだ。
 俺が知っているのはただ一つ。人伝ひとづてに聞いた海野の言葉。


「勉強に飽きた」


 大学一年から四年の全ての学期で、難解な専攻科目を相手に”優”以上を連発してきた男。「周りが勉強しなさすぎなだけや」と言い放っては、働きながら勉学に勤しんできた男。そういう男がその言葉を吐いた背景を、海野に遠く及ばない努力しかしてこなかった俺が想像できるはずもない。


 だが、その一言の奥に底知れぬ闇が満ち満ちていることは直観できた。
 恐らくは、俺自身もその闇に身を落とす慮外者アウトサイダーと成り果てていたが故に。


 大学院を辞めた海野は小さな町工場で働き始めた。それから程なくして、俺は海野の家に遊びに行くようになった。大学卒業を機に海野達のルームシェアは解散されている。他の誰でもない海野に会いに行くために、俺は海野が一人で住まうアパートに足繁く通った。
 特別何をするわけでもない。海野がプレイするゲームを観ながら、あるいは海野が録画したバイクレース番組”MotoGP”を観ながら、互いに煙草を吹かし雑談するのが常だった。海野は元から喫煙者だったが、俺は大学院に進学してから始めた。もらい煙草すら経験がなかったが、何もかもが嫌になった挙句いきなり一箱買って吸い始めた。吸っていくうちに体に馴染んでしまった。
 ある時はゲームやマンガ。またある時は互いの趣味、つまり海野のバイクか俺の麻雀。たまに仕事や学業の様子。そしてごく稀に人生を語る。
 思い描いていた人生のレールを踏み外した二人のアウトサイダーの語らいは、月に一、二度開かれる。普段身にまとう卑屈さや虚勢を脱ぎ捨てて素のままで振る舞えるこの無軌道歓談の集いは、当時の俺にとっては生命線と言えるほど重要で、かけがえのない場所だった。

 

 二十代も終わりに差し掛かりつつあったその日、俺は海野の家でMotoGPを観ていた。マシン達の切り裂くようなエキゾースト音と並んで海野の言葉が耳に入る。

「このマルク・マルケス言うんがまあー強いねん。言うたら若き天才って奴やな。俺は好かんのやけど強さは認めざるを得ん。憎らしいやっちゃで、ほんま」

 たとえ自分が興味の無いコンテンツであろうと、それを解説する人間がそばに居れば自ずと興味は湧いてくる。加えて海野は解説が上手く、素人の俺の質問にも的を射た回答を返してくる。いつしか俺は、海野の解説付きでバイク動画を観る方がゲームよりも楽しみになっていた。
 海野が憎々しげに語るそばから、オレンジの配色も眩しいマルケスの車体はバレンティーノ・ロッシの駆るダークブルーの車体を躱して先頭に躍り出る。お気に入りの選手の一人が抜かれる瞬間を目の当たりにして、海野は大きく舌打ちした。

「ああ、ああ。ロッシもっと頑張れよぉ。嫌やなあこういうシーンは、レジェンド級のベテランがポッと出の若造に負かされるだなんて。つくづくこの世は残酷や」

 大袈裟に頭を打ち振る海野の落胆ぶりが可笑しくて、悪いと知りつつも笑ってしまう。落胆ぶりだけではなくその内容も可笑しかった。

「まあ、贔屓のロッシが抜かされたのはともかくとしてさ。その言い方は流石にじじむさくねえか。そういうセリフを吐くほど俺らは年寄りじゃねえよ、少なくとも今は」

 宥めにかかる俺の言葉が癇に障ったのか、海野は目を剥いてまくし立ててきた。

年齢トシの話をしてるんとちゃう。努力とかキャリアとかの積み重ねたモノが経験の浅い天才に敵わない、そういう事実を突きつけられる事が辛いんや。言うとくけどな、ロッシだって天才と呼ばれとって、何度も何度も優勝経験を積んできた超一流のレーサーやで。そういう才能と経験の塊ですらそれを更に上回る才能の前には負けてまうんや。それが俺には堪らへん、そういう話をしとんねん」

 海野の物言いには真に迫るものがあった。俺はばつが悪くなって押し黙ったが、その様子に気づいた海野はすぐに詫びた。

「すまんな、言い方キツなってもうたわ」

「いや、俺の方こそ悪かった。そういう意図だったとは気づかなくて」

 海野はウィンストン。俺はボヘーム・シガー。二人して手持ちの煙草に火を点けて吸い込み、煙を吐き出す。
 紫煙と沈黙がひとしきり部屋中を満たした後、海野が口を開いた。

「ところでさ、これからどないしよう思うてんの。今日はその辺の話をしに来たんやろ?」

 ああ、と返事をしたものの、その後が中々継げなかった。

 長かった俺の大学院生活にも終わりの兆しが見え始めていた。這々ほうほうていではあるものの、退学などではないれっきとした過程修了だ。尊厳を粉々に打ち砕かれた地獄の数年間だったが、ともかくはやり切る事が出来たと言っていい。
 だが、それで万事めでたしという訳ではない。むしろ問題はその後だ。今後も親の意向に沿ったルートを歩み続けるか、あるいは路線を変更して全く違う道に進むか。
 三十路を前にして親の意向に縛りつけられる己が、社会的に醜く未成熟な存在である事はとっくの昔に理解している。だが、理解した程度で断ち切れるほど縛りの甘い縄でもない。大学院という地獄を脱け出たところで、未熟な自分にケリを付けない限り俺はオトナに成れないのだと思い知らされた。

 二の句が継げずに黙り込む俺を、叱責も激励もないまま海野は見つめる。そのままもう一度ウィンストンを吸い込むと、溜息混じりに煙を吐いた。

竹井タケが俺に話をするときは、大体自分なりの結論を持って話に来るんやけどなあ。今回は話のていすら整わんほど重症ちゅうわけか」

「すまん。まだ全然煮えきってなくて・・・」

 情けない声と姿をさらけ出す俺に、海野は軽く手を振って応じる。

「ええよ。今後の自分の人生の話やからな、そら簡単に結論なんか出せへんやろ。もっとも、働いてメシを食う事自体はそこまで難しい事ではないと思うけどな。少なくとも自分が思うてるよりは簡単やで」

 有り余る優秀さを以て大学院に進学しながらその道を棄て、己の体一つで生きている海野の言葉には重みがあった。煙草を灰皿に押し当てて揉み消すその仕草には、形容し難いある種の貫禄が満ちていた。

 再び、部屋に満ちる沈黙。

 いや、正確には沈黙していない。MotoGPを流しっぱなしのテレビからマシン達の甲高い雄叫びが聴こえている。自分でもそうと分かる淀んだ瞳で、俺は液晶に目を向けた。


 ファイナルラップの一つ前。あの後何度か抜きつ抜かれつしたようで、マルケスとロッシが最終コーナリングを競り合おうとしていた。マルケス後方、ロッシ前方。少しでも重心移動を誤れば即スリップを起こしかねない超速の中、二台はコーナーへと進入する。
 コーナー進入直前、ロッシの内側インを突いてマルケスが躍り出た。素人目にも分かるほどの獰猛で鋭角な突き込み。内側イン外側アウト、前方と後方が瞬時に入れ替わる。両者滑らかなコーナリングを開始。マルケスはインを譲らない。

 違う。マルケスが膨らんだ。
 コーナリング進入の直前に重心移動を誤ったのか、オレンジの車体が大きくアウトに逸れた。何分の一秒かの間隙だがレーサーにとっては巨大な空白。インベタを寝そべる必要無しと見て取ったダークブルーの車体が、無人の野を捉え踏み入れ食い破る。
 ロッシ前方。マルケス後方。一車体半の差が生まれた。ファイナルラップ突入。


 同じくテレビを観ていた海野が快哉を叫ぶのをよそに、俺は一瞬の攻防に心を奪われていた。インとアウト、後と先を巡る攻防はおよそ三秒にも満たない程度の出来事だったが、その間だけは淀んだ瞳に微かな光が戻っていた事を自覚した。

「海野」

 ファイナルラップに食い入る海野に声を掛ける。

「ん、何や?」

 海野が怪訝そうに振り返る。

「お前のバイクに乗せてくれ」


― ― ―

 アスファルト舗装が敷かれた峠道の両脇には新緑が芽吹きはじめていた。老夫婦がピクニックでもするにはもってこいの塩梅だ。
 だが、そんなのどかな感想が吐けるほどの余裕は無い。全身をプロテクターとフルフェイスヘルメットで固めた俺は、同じく完全装備の海野の後ろで必死にグラブバーを握りしめていた。

 ホームコースでのタンデムを懇願する俺に海野は難色を示した。海野のバイクの楽しみ方は遠出を楽しむ行楽じみたものではなく、峠を攻めるレーサーのそれだったからだ。その行為の危険性は海野自身百も承知していて、常にプロテクターを装備して嗜んでいるという。それも飽くまで自分一人で楽しむから出来ることであって、他人、それもバイク素人を同乗させるなど以ての外との事だった。

「楽しむためには自分の命をベット(=賭ける、張る)せなあかんのがバイクやねん。自分一人で済めばこそ事故のリスクを承知で乗るけど、他人の命まで背負う事は出来へんわ。たとえ攻めずとも、カーブの多い峠を走る時点でそのリスクは付いて回んねんで」

 至極真っ当な理屈だったが、俺はめげずに食い下がった。
 ”それ”を知ったところで何かが変わるわけではないかもしれない。それでもなお、たとえ片鱗でも良いから体で感じてみたいと思ったのだ。わずかながらも俺の目に光を宿してくれた、バイクというモノの何たるかを。
 必死に拝み倒す俺についに根負けした海野は、いくつかの条件をもとに俺の同乗を認めた。
 一つ。ふだん海野がやっているような”攻め”は無しで緩やかに流す。二つ。海野と同じく俺も全身プロテクター着用。三つ。使うバイクは海野がメインで走らせている車種ではなく、安定性を重視したサブの車種。
 そして四つ。絶対に「怖い」と言わないこと。
 以上が海野の提示した条件だった。


 だが、怖いもんは怖い。やっぱり怖い。

 快適とは言い難い後部座席の固さ。これまでの生活で経験したことの無い鋭い風圧。カーブのたびに全身で感じる重力と否応なく強いられる体重移動。そして何より、グラブバーを手放したら即座にアスファルトに転がり落ちるという事実。そのすべてが一丸となって俺の五体に伸し掛かっていた。

「どうやあ、タケぇ!乗り心地はぁ!」

 運転を務める海野の叫びに、咄嗟に禁句が口を衝く。

「こ――」

「あァ!?」

 口をつぐんだ。
 無理を言って乗せてもらった以上は断じて禁を破るわけにいかない。それに、俺より海野の方が遥かに恐ろしいに決まっているのだ。素人を乗せて峠を走るハイリスクを引き受けてくれた友人にそんな無礼は働けない。
 出かかった声を飲み込んで、違う言葉を引き出した。

「風が気持ちいいなぁ!」

「そうかぁ!だったらえわぁ!」

 嘘ではなかった。確かに恐ろしいが、同時に心地良くもあるのだ。普段の生活では絶対にあり得ない五体そのもので感じるスピード。そこから生まれるこの風圧こそが「風を切る」という事なのだと、初めて体で理解できた気がした。

 全身で風を切り、つづら折りのカーブの重力を体重移動でなし、目にするそばから後方に流れていく新緑の景色を心に焼き付ける。恐怖と楽しさが分かち難く張りついた峠道を、己の体をむき出しにしたまま二つの車輪で進んでいく。


 そうか、これがバイクというモノなのか。
 全貌の片鱗でしかないにせよ、その本質が垣間見えたような気がした。


 ひとまずの目的地である中腹の展望スポットまであと一km足らず。そこまで差し掛かったその時、目を疑うモノを見た。

 俺たちよりもスローペースで先行していたツーリングライダーの一団。そのうちの一人が、ハンドルを握るはずの両手を”アラレちゃん”よろしく水平に伸ばして走行している。簡単な曲乗りだが、素人の俺には十分に衝撃的な光景だった。

「マジかよあんな事できんのか!?」

 思わず声を上げた俺に海野が応じる。

「やろう思たら俺でもできるなぁ!何なら今からやってみよかァ!?」

「やめてくれェ!!!」

 本気で怯える俺に笑い声を上げながら海野は走り続ける。今の叫びは禁句扱いではないようだった。


 展望スポットまで辿り着きバイクを停める。
 眼下に広がる街並みとその四方をぐるりと囲む山々。目に見えぬ境界線が引かれたかのように人工物と自然物が二極化されたパノラマを見つめながら、俺と海野は紙巻に火を点けた。

「良い景色だな。俺、こういうの好きなんだ」

「俺はあんまり景色とかには興味無いねんけどな。まあ今日は行楽みたいなもんやし、とりあえずこの辺にでも連れてったらええやろ思てな」

 ふーっと煙を吐き出すと、煙草を右手にぶら下げる。その姿勢のままで海野が訊いてきた。

「どや、楽しかったか?」

「うん、楽しかったわ。バイクってリスキーだけどワクワクする乗り物なんだなって」

「言うても今日のは序の口未満やけどな。まあ確かに、自分が言うとおりではあるよ。楽しさに正比例してリスクも跳ね上がるのがバイクや。自分が今日感じた分の何十倍のワクワクを俺はいつも味わっとる。せやけどその分だけ、掛かるリスクもウン十倍や」

「『自分の命をベットする』って奴か」

「そういう事や。まあ何も命を張り駒にせずとも楽しめる奴は楽しめるんやけどな。俺はそうじゃないから命をベットせなあかんねん。大学の頃からずっと尖ったコトやり過ぎて、生温いツーリングじゃ満足できひん体になってもうた」

 話に一区切りをつけると、海野は再び煙草を銜えた。茶色のチャコールフィルターを口端に収めたまま、軽く目を閉じて煙を吐き出す。


 そんな海野の姿を見ながら、俺も自分の煙草を口に挟む。
 煙を肺に満たしながら、幾つかの事柄を反芻していた。


 『命を張り込む』と呼ばわるほどに際疾きわどい峠攻めを繰り返す海野。チャチな曲乗りを決めてご満悦のツーリングライダー。そして、素人の俺が必死に感じ取ろうとした、全身で風を切る感覚。
 レベルも事象もてんでバラバラ。だが、一つだけ共通していることがある。



 誰もが、自分のやり方で楽しんでいるという事だ。



「自由なんだな、要するに」

 ひとりでに漏れた俺の呟きが聴こえたのか、海野が閉じていた目を開けた。

「ん、何やいきなり」

「いや、バイクってそういうもんなんだなって思って。楽しみ方はそいつの勝手で良いんだなって、そんな事を考えてた」

 文脈を語らない発言だったが、言わんとする事は伝わったらしい。海野の口端が片方だけ釣り上がった。

「バイクだけとちゃう。何事もそういうもんやろ。要は自分のやり方でやれればそれでええんや」

「・・・そうだな。自分のやり方で、な」

「せや。自分の思うようにやればええねん。細かい事は知らんし責任も取れん。せやけど応援はしとるで。いつだってな」

 力強く言い切ると、海野はウィンストンの吸い指しを地面に擦り付けた。吸い殻を携帯灰皿に収めると、ポケットに両手を突っ込んだままの姿勢でこちらに声を掛ける。

「さて、自分がそれ吸い終わったらぼちぼち行こか。帰りは帰りで注意せないかんからな、しっかり掴まっとけよ」

 街と山が明確に分かたれたパノラマを見納めつつ、俺は海野の言葉に首肯した。
 慣れ親しんだボヘーム・シガーの六ミリ。シルクのようになめらかで重い煙をひとしきり吸い込んだ後、空に向かって細く、鋭く吹きつける。



 紫煙は吐き出されたそばから風に舞い、新緑と青空の中に溶けていった。

                               〈了〉








追伸 海野へ

 書くと宣言してから半年近くも経った事、作劇の都合上時系列が滅茶苦茶になった事、レーシング描写や大阪弁の拙劣さその他諸々を詫びる。
 俺は今でこそ真っ当な職に就けているが、お前が居なかったらどうなっていたか分からない。人生の一番辛い時期にずっと話を聞いてくれてありがとう。

 今後とも、宜しく頼む。