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とんだ思い違い(逆噴射小説大賞2021最終選考入りに寄せて)。

 一月以上も前の話を書くのは気後れするが、二次選考突破まで記事にしておきながらこれを書かないのも尻切れトンボだと思ったので書く事にする。

 パルプ小説(ブッ飛んだラノベ、パンチの効いたエンタメ小説)の書き出し800字以内で面白さを競い合う”逆噴射小説大賞”の第4回、その最終結果が発表された。
 おれの応募作は大賞にも奨励賞(準優勝に相当)にも該当していない。だが、最終選考には残っていた。
 以前書いた記事でも触れたが、この大賞は二次選考の時点で応募総数(今年は403本)の1/4(93本)までふるいにかけられる。そこから最終選考にたどり着いたのは30本前後、その中でも審査委員長の講評コメンタリーを頂戴できた作品は大賞と奨励賞を含めて25本。その中におれの応募作も入っていた。

 優勝商品のCORONAビール以上に、文芸のプロである審査委員長のコメンタリーを頂戴したいがためにこの大賞に挑戦している人は多い。noteユーザー向けに例えるなら、今週のおすすめ記事入りかそれ以上の栄誉ステータスに相当するのが審査委員長のコメンタリーだ。人によってはコメンタリー獲得が一種の悲願ですらある。かく言うおれ自身、参戦するからには是非ともこのコメンタリーを頂戴したいと思っていた。
 実力も経験も豊かなパルプスリンガー達が涙を呑む中、小説をロクに書いた事のないおれがいきなり最終選考まで歩を進めてコメンタリーを賜る事ができた。恐縮極まりない話だが、客観的に見れば相当な快挙と言える。

 にも拘わらず、おれは当初不満を抱いていた。
 結果に対しての不満ではない。コメンタリーの内容が期待していたものと大きく異なっていた事が不満だった。
 以下に、おれが頂戴したコメンタリーを引用させていただく。

 普通のお仕事モノにも、急転直下のホラーやスパナチュなどにも、ここから何にでも振っていける強みを感じる。いっぽうで、このままだと往年のサラリーマン漫画誌的な「大衆的な薄い感じ」「わかりやすすぎる一般的記号っぽさ」につながってしまう予感もあるので、もう少し味付けにこだわってもいいのかもしれない。あと、居抜きの改装費100万円は安すぎないか? とゆうのが最初にすごく引っかかった。その後はお仕事ものっぽいリアリティが戻ってきたが、逆にそれが冒頭の改装費100万円の違和感を強調することとなった。

出典 逆噴射小説大賞2021:結果発表

 過去大賞のバックナンバーを読む限り、コメンタリーでは作品を通じて書き手の強みと弱みが述べられている事が多い。
 プロ直々のコメンタリー、はっきり言うとお褒めの言葉は言うまでもなく貴重だ。そういうコメンタリーを頂戴した書き手はさらに奮起する事ができる。おれもコンテストに挑戦した身として、是非その甘美なカンフル剤を口にしてみたいと思っていた。
 だが、頂いたコメンタリーは存外に褒め言葉の少ないものだった。他のファイナリストの方々と見比べても辛口な内容だと思う。それ以上に、評価点も減点対象も予想外の内容だった事がおれを困惑させた。
 真っ当なお仕事ものを書いたつもりだったのにホラーや超自然ものスパナチュに振る事を期待されても困る。ありきたりを回避するために味付けにこだわれと言うのはもっともだが、過去大賞でお仕事もの/ジャンルもの全体に向けて寄せられた「題材は変にいじらずそのままグーで殴れ」というアドバイスとの整合性はどうなるのか。そして最もダメ出しを食らった冒頭100万のくだりは、詳しく言えないがおれが実際に言われた/見聞きした言葉だ。物件の状況次第で額は変動するだろうが、おれなりのR.E.A.Lを詰め込んだつもりだっただけに悔しかった。

 総じて、期待していた甘美な味わいとは程遠い内容だった。甘美どころか青魚のはらわたのようにえぐ味ある内容だと感じた。このコメンタリーをどう今後に活かしていけば良いのかわからないし、そもそも最終選考入りの対価がこのコメンタリーという事自体に納得できない。
 何のために、おれはここまでこの大賞に入れ込んでいたのかわからなくなった。

 最終選考まで残っていながら不満を抱いた罰当たりなど、この大賞の歴史上でおれしか存在しないだろう。単なるガキの我儘、二次選考や最終選考で涙を呑んだ他の参加者に石を投げられても文句の言えない話だ。
 そう頭で理解しつつも、どうしても己を得心させる事ができなかった。

 コメンタリーを読んだその日、おれは上記の恨み節を骨の髄まで染み込ませたまま不貞寝した。



 時薬ときぐすりとは良く言ったもので、その後四、五日ほど経つうちにコメンタリーを読んで取り乱すような事は無くなった。その期間中にリアルの友人達やパルプスリンガーの先輩方に話を聞いてもらった事も、精神の回復に大きく寄与してくれた。

「人間だし好みもあるから気にするな」
「別に審査員も神というわけではない。コメンタリーは審査委員長のその時の気分によるところも大きい」
「大事なのは最終選考まで残ったという事実。そもそも面白い/クオリティが高いからこそ最終選考まで残っている事を忘れてはいけない」

 自分でもうっすらと思っていた事を他者の口から聞けたことは本当にありがたかった。この場を借りて御礼を言いたい。ありがとうございます。

 そのうえで、改めてコメンタリーを読み返してみた。ショックを受ける事はもう無いがやはり辛口な内容だ。
 だが問題は、内容が甘口だとか辛口だとか、正しいのか誤っているのかという話ではない。
 このコメンタリーがどういう目線で書かれているのか、何を目指せと言わんとしているのか。次はそれを知りたいと思うようになっていた。


 
 いきなり話は飛ぶ。
 ある日の仕事終わり、帰り道で職場の後輩と出くわした。およそ文芸には縁の無いノリの軽い男だが、義理堅く口も固い。おれは(誰でもそうだろうが)物書きの趣味を職場で明かさないようにしているが、こいつにだけは今回の大賞の途中経過を話していた。二次選考を二本通過したという話に後輩は目を丸くして驚き、結果が出たら教えてくれと言ってくれていた。
 早速、今回の大賞の結果――最終選考入りとコメンタリーを頂戴した事――を後輩に聞かせた。後輩はええっマジすかそれマジでヤバくないすかと声を上げた。言葉遣いは軽薄だが心底感嘆しているらしい。最終選考作とコメンタリーを読ませてくれと言われたので、その場でスマホを操作してページを見せた。

「ははは、面白え。いやあ普通におもろいっすねコレ、探偵モノみたいなノリじゃないすか。すげえなあ、よくこんなん書けますね」

 ”探偵モノ”というのは、恐らくおれが志向したハードボイルドのテイストを指しての言葉だと思われる。いずれにせよ面白く読んでくれているようだった。

「で、そのプロからのコメントってのはどんな感じなんすか?」

 言われるがまま、コメンタリーのページをスクロールして該当部分を指し示す。
 コメンタリーを覗き込む後輩。その表情からニヤけた笑みが消えた。

「ええ・・・ヤベえっすねコレ」

「割と辛口な評価だよな」

 おれの言葉に後輩は「そうっすねー辛いっすねー」とでも返すものと思っていた。だが、返ってきた言葉は予想外のものだった。

「いや、辛口っていうか・・・ガチっすね、完全に。素人の趣味レベルの話じゃないでしょコレ」

 後輩の返答におれは瞠目した。”完全にガチ”という一言に込められているニュアンスは、このコンテストの本質を言い当てているような気がした。

「先輩以外のも読ませてくださいよ。二つか三つくらい、さっきのコメント付きで」

 後輩に請われるまま、ふだん小説を読まないような人間でも楽しめそうな作品を三つほどチョイスして後輩にスマホを手渡す。後輩はさっきと同じ調子でええーやっべえーとヘラヘラ笑いながら作品を楽しみ、神妙な面持ちでコメンタリーを読むのを繰り返していた。
 ひとしきり読み終わった後輩が、スマホを返しながら感想を口にした。

「いやあどれもヤベえっすね、普通に面白いしコメントもガチっすわ。応募する側もコメントする側もプロの世界っすね、先輩よくこんなとこで最後まで生き残れましたねえ。いやあすげえっすわ」

 次優勝したらCORONA一本分けてくださいよと言い残して後輩は去っていく。
 後輩の後ろ姿を眺めながら、いよいよおれは得心した。


 ああ、そうだ。あいつの言うとおりだ。
 所詮はパルプ小説の書き出し800字。だが、本気で挑み結果を出す参加者は程度の差こそあれプロを志向していて、審査する側もプロとしてコメンタリーを寄せている。

 プロとしての視点。後輩が言うところの”完全にガチ”な”プロの世界”。
 言い換えれば、それは応募作が商業作品として通用するかという視点だ。

 もちろん、ライトな感覚で応募しても一向に構わない。多数の連載を抱える主催者側が無償でこのコンテストを運営しているのも、一人でも多くの人に創作をはじめるきっかけを提供したいからだと聞いている。そういう意味では気負わずライトな感覚で参加するのがむしろ正解だろう。
 だが、先述したプロの視点、応募作が商業作品たり得るクオリティやポテンシャルを有しているのかという審査員の視点は一貫している。一次、二次、最終と審査過程が進むにつれてその視点は先鋭化していくはずだ。だからこそ選考に残る事自体が困難だし、仮に最終選考以上に残ったとしても甘いコメンタリーが貰えるとは限らない。


 詰まるところ、おれは完全に思い違いをしていたのだ。
 おれに寄せられたコメンタリーの内容についても、このコンテストの本質についても。

 まずコメンタリー。これをおれなりに解釈するとこうなる。

「最終選考にまで残っているんだから面白いのは当たり前。その上で、今後この作品を売り物として出すならお前は以下の視点を持つべきだ」

「今回のお前の作品には、単なるお仕事ものに留まらずホラーや超自然ものといった現代性のあるファクターを盛り込める余地がある。また(実際に使う使わないは別にして)そういうファクターを積極的に取り入れようとする姿勢が求められる。冒頭100万の金額についても、額の正誤以前の話として下調べを怠るな。最後までリアリティを追求しろ」

 そしてコンテストの本質。それは表の顔と裏の顔の二つから成るものだ。
 それぞれの顔については主催者のダイハードテイルズ自身の言葉を借りて説明したい。まずは表の顔から。 

 冒頭部のみで競うため「今まで小説なんて書いたことがない!」という人でも、初期衝動のおもむくまま、お祭り的に参加できます。

 ライトな感覚で参加することで、創作をはじめる/楽しむきっかけにしてほしいという事。実際800字の短文だったからこそ、素人のおれも参戦に踏み切る事ができた。

 問題はもう一つの側面、裏の顔。

 そして本気で最終選考に残ろうとすると、確かな力が必要です。

 「その作品が商業作品足り得るか」というプロの視点に自分の応募作が耐えうるかという事。
 おれは今大賞を決して舐めてはいない。ハードルの高さはおれなりに弁えていたつもりだ。だがそれはそれとして、根本的にはあくまでお祭りとして今大賞を楽しんでいた。要するに表の顔しか認識していなかった。
 だからこそコメンタリーの辛口さに動揺してしまったが、そもそもここはそういう場所だ。これまで何度もこのコンテストをMEXICO過酷な荒野と呼称してきたが、その真意はプロがプロたらんとする者をふるいにかける一種の道場だったのだ。
 800字の打ち上げ花火が乱れ飛ぶフェスティバルでありながら、厳粛な修行場でもある二律背反の世界。それがMEXICO、それが逆噴射小説大賞。今更にも程がある話だが、遅まきながらやっと体で理解できた気がした。


 
 今大賞の正体について思う事をここまで縷縷るる述べてきた。その上で今後どうするか。
 結論から言うと何も変わらない。パルプだろうとエッセイだろうと自分に書ける文章を書ける限り書いて、次回もこの大賞に参加する。
 道場としての厳粛さを体で知ったが、やはり祭りの場でもあるのがMEXICOだ。ブッ飛んだパルプの書き出し800字が乱れ飛ぶこの祭りはこの上なく面白い。読むのも面白いし、書くのはしんどいがもっともっと面白い。そして誰かに自分の作品が面白いと思ってもらえるのは最高に嬉しい。
 面白いと思ってもらえたという話で言うと、最終選考作品を対象にした有志の読書会ではおれの作品もピックアップしていただいた。参加者はいずれも名うてのパルプスリンガーなだけにどう酷評されるか気が気でなかったが、おれの予想とは裏腹に好評だった。書き手としても読み手としても玄人の先輩方がおれの作品を面白く読んでくれている、その事実がダイレクトに伝わってきたのは本当に本当に嬉しかった。この場を借りて厚く御礼申し上げます。


 そういう訳で、次回も参加する。
 次回も応募作を全部読むし、自分でも書いて読んでもらう。そういう素人根性のままに次回も全力を尽くしたい。今はそんな気持ちだ。



 関係ない話だが、ひとつ思い出した事がある。
 おれがnoteを始める経緯をつづった初投稿の記事、そこでおれは愛読するニンジャスレイヤー(※ダイハードテイルズが翻訳を手掛けるサイバーパンク小説)をきっかけにこのnoteを知ったと書いていた。

 ニンジャスレイヤーをきっかけにnoteを知ったが、ニンジャスレイヤー界隈には手を出す事もなくnoteでエッセイを書いていた。それでいてある日卒然とニンジャスレイヤー翻訳者主催の小説大賞に応募し、そこで最終選考までたどり着いた。
 こうして書くといびつなルートに見えるが、自分としてはニンジャスレイヤーというコンテンツがもたらした不思議な縁だと感じている。また、この一見奇妙なルートも自分にとっては必然の過程だったと思っている。
 うまく言えないが、納まるべきところに納まった、必要な遠回りを経てフラグ回収を果たしたという実感があるのだ。書いていたのはパルプには程遠いエッセイだったが、たとえ小説でないにせよ文章修行プラクティスを続けていて良かったなと思う。

 文章修行という話で続けさせてもらうと、今おれは一週間限定だが毎日noteの記事を上げる事に挑戦している。2ヶ月弱ほど何も書かないうちに錆びついた指を再び鍛え直さなければならない、そういう思いにかられての事だ。内容は例によってエッセイやコンテンツ語りだが、おれにとってはこれもパルプを書くための修行だ。もっと言うと再びパルプを書くためにこのリハビリを敢行している節さえある。
 
 今大賞の応募期間の一月前――つまり昨年の8月末頃――おれは長期間noteの更新を停滞させていた。書けない自分から脱却するための修行として一週間連続投稿を遂行した結果、週一程度だが再びコンスタントに文章を書けるようになった。当時はパルプを書くだなんて一切頭に無かったが、いざ思い立った時にぶっつけでも書けたのはそれなりの文章を継続して書く下地が出来ていたからだと自分では思っている。

 翻って今現在、その頃とほぼ同じ状況に陥っている。パルプを書きたいという意欲はあるがアイデアは無い。よしんば閃きのカケラ程度はあるにしても、それを書き切る/まとめ切る/最後までやり遂げるだけの腕力が無い。これは作劇技法がどうのこうのという話ではなく基礎体力の問題だ。
 その基礎体力、ひいてはかつての勘を取り戻すために、こうして一週間書いている。これで5日目だ。


 あと2日は頑張りたい。
 再び面白いものを書けるようになるために。