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もうひとつの「20歳のソウル」斗真の物語③

「部活は入ったの?」
 珍しく母親が話しかけてきた。
「なんで?」
 聞き返した僕に彼女はぎこちない笑顔で言う。
「市船の吹奏楽って、強いんでしょ。全国レベルで」
 なんだよ、気持ち悪いな。急に母親ぶったことを言われても何も響かない。彼女の心の奥にある魂胆にしか興味が湧かない。おそらく、僕が家にいないほうが助かる事情でもあるのだろう。心配しなくたって、僕こそあんたら両親にはまったく興味がない。どこで何をしようと関係ないから、勝手に生きて勝手に死んでくれ。
「強いみたいだね。明日、見学に行ってみるつもり」
 愛想笑いを浮かべて答えた。無性に腹が立った時、まったく心にもない嘘で心を停止させることをこれまでに学んだ。こうやって、僕は僕なりに人生と折り合いをつけていく。
「楽器は何をするの? 斗真は何やっても上手だから…ピアノが一番だけど…。でも、吹奏楽にピアノはないわよね」
 本当に、今日の母親はよく喋る。
「やっぱりトランペットが格好いいかな。お父さんのトランペット、まだ使えるのよ」
 ゾッとした。
 どういう神経があったら僕の前で「お父さん」なんて言えるんだ。父ではない男の子供を失って泣いた日から半年も経っていないのに。それとも子供は何も分かっていないと馬鹿みたいに信じているのだろうか。甘いお菓子や玩具でいつまでも誤魔化せると思っているのだろうか。
「おやすみ」
 すべてのコミュニケーションを断ち切る言葉で僕は自室のドアに手をかけた。
「じゃあね」
 母親の笑顔が歪んだ。閉じたドアにもたれかかって、僕はしばらくぼんやりとしていた。母親が玄関でハイヒールを履く音がした。音がしないようにそっとドアをあけて、閉める音がした。どれだけ彼女が息を押し殺しても、ガチャリと鍵をかける音は家中に響き渡る。
 溜息だけが漏れた。
 別れたはずの彼氏と、今でもこっそり会っていることを僕は知ってる。
 決まって、父親がいない日に。
 女って、なんなんだ。
 もう一度、溜息をついた。一人が一番落ち着く。けれど、この、僕に安らぎをくれる自分の部屋さえも、すべて親から与えられたもの。そう考えると吐き気がした。早く、早く、大人になりたい。親に生かされてるなんて思いたくない。自分一人で、自分の力で、生きていきたい。
 僕は部屋の真ん中に鎮座しているサイレントドラムのスティックを握った。去年の誕生日に父がくれたものだ。思いつくまま叩く。リズムは鼓動と重なり、心を叩く。胸につかえる黒い塊のような靄が粉々に弾けて飛んでいく。
 全部、なくなってしまえばいい。
 いっそ、僕自身も。
 痺れるような腕の痛みに僕はスティックを置く。額に汗がにじんでいた。この道で、音楽の道で食べていけるようになろう。そう。両親が手を伸ばしても届かない場所へ行こう。誰の助けも借りず、自分一人で。どうせならその日まで、利用できるものはすべて利用してやる。音大に進んで音楽家になって、「良い子」を演じ続けて、彼らが自慢できる息子になったその瞬間に、捨ててやる。
 捨てられる前に、捨ててやる。
 鞄からクリアファイルを引っ張り出した。クラスで配られた資料一式の中に各部の説明書と入部届がある。叩きつけるように机に用紙を広げ、書いた。
「入部届 吹奏楽部」
 
 桜は、昨日の雨で一気に散ってしまったようだった。
夕方の「音楽室」には誰もいなかった。昨夜書いた入部届はズボンのポケットに入ったままだった。明日から本格的に授業が始まる。クラスのほとんどの生徒が部活を決めている。僕は迷った。さっき、体育館で吹奏楽部の演奏を聴いた。
 感動はしなかった。
 けれど、何か変な感覚があった。まるで腹に蹴りを入れられたような鈍い痛みが走った。
この痛みがなんなのか、分からない。
 吹奏楽の演奏が終わり、合唱が始まった。僕はそっと体育館を出た。分からないままだった。音楽に蹴られるような経験など今までしたことがなかった。音楽はいつも僕の傍にいて、内側から溢れ出す優しさに包まれていた。音楽は、いつも僕と一緒にいた。
 それなのに、この吹奏楽部の最初の一音は、まるで僕の知らない音楽の顔をしていた。
 ドスッと鈍い音を立てて、僕の腹を蹴った。
そのまま、まっすぐ帰ってもよかったのだ。自分の部屋で自分のピアノに向かえば、音楽はいつものように僕の指に優しくまとわりついて慰めてくれるはずだから。
 けれど、足は「音楽室」へ向かっていた。
 最上階である四階の一番奥の部屋。
 まだ入ったことのないその「音楽室」に僕は足を踏み入れた。窓際の指揮台と、綺麗にたたまれて並んでいるパイプ椅子。カバーをかけて陳列する楽器。差し込むオレンジ色の夕陽と、聞こえてくる野球部の声。
 ここで、あの音楽が作られるのか。
 年季の入った床。壁に無数に貼られた卵パック。そして、グランドピアノ。僕はピアノの蓋に手をかけた。鍵はかかっていない。見知らぬ鍵盤が僕を見つめている。どんなピアノも弾きこなせる自信はあったが、今はなんだか試されているような気がする。
「弾けるもんなら弾いてみろ」
 そう挑発されているようにすら、感じる。
 椅子に腰かけ、指を置いた。さっきの曲。なんだっけ。耳慣れない曲。すべての楽器がよく鳴るよう計算された音並び。執拗に繰り返しながら発展する主旋律…。クライマックスに向けて転調し、そして…。
 
「やるなぁ」
 真後ろからでかい声がして、ハッと指を止めた。心臓が飛び出すかと思った。振り返ると、短パンにTシャツ姿でがっちりした体格の男が腕組みをして僕を見つめていた。
「さっき、覚えたのか」
 男はするどい眼光を僕に向けた。
 勝手にピアノを弾いていたことを怒られるかもしれないと思った僕の動揺をまったく無視して、彼の目は少し笑っているように見える。
「はい…」
 僕は立ち上がった。今すぐに退散したかった。が、その男の目を見ていると立ち去りがたかった。何か、言わなければ。というより、何かを言わせる空気があった。
「綺麗な、メロディラインですね」
 男は頷く。
「去年の定期演奏会でやった吹劇の終曲だ。吹奏楽界の天才が作った。物語の主題は「愛と老い」。難しいテーマだろ?」
僕は男の目を見つめ返した。
愛、と老い? 老いと共に愛も枯れるって話だろうか。愛なんて、持ったこともないのかもしれないけれど。自分の両親に突きつけてやりたいテーマだ。いや、彼らはもともと愛なんて持ってない。
「僕には、少し退屈に聴こえました」
 両親のことを考えたからか、自分でも少し棘のある言い方をした。この男が誰なのかは分からないが、この部屋に来るってことは音楽の教師であることには間違いがない。
 不快な顔をすると思った。
 と、思った瞬間、男は笑った。しかも豪快に、大声で。
「そうか! つまんなかったか」
 面食らった僕の顔を見て、一層面白くなったのか、男は続けた。
「だったら、今年は退屈しねえものを作ろうぜ、なあ?」
 なあ?と言われてまた驚いた。
 もしかして…。
「入部届、待ってるぞ」
 男は笑いながら音楽室を出て行った。僕はポケットに手を突っ込み、入部届を引っ張り出す。もしかして、今の男は。
「高橋先生」
 間が抜けたように口から出た。夕陽のオレンジ色が、部屋をより一層強く染めていた。


(つづく)


※現在公開中の映画『20歳のソウル』第一稿をもとにした佐伯斗真のスピンオフ。映画用に作った斗真の裏設定を元に描いたストーリーですので、こちらの小説に登場する人物・エピソードは、中井由梨子が創作した架空の人物・物語であり、実在の人物、市船とは全く関係のないフィクションです。
 
 
 
 
 
 
 

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