「夢中」という手段・「現実」という目的

先日、大学の同級生と会った。
彼は、「仕事はしんどくない」と言う。
これは世の中の少数派だと勝手に思っている。
話を聞いても、決して楽しているとか、業務量が少ないとかではない。
なかなかハードに仕事をしている時もあるように思う。
しかし、「誰かに何かを与えているから楽しい」「この人にこうなってほしいというのが目標!」と自分の損得ではない次元で話す。

そうだ、この視点が自分には足りていなかった。

「夢中」で生きる


一番初め、公務員を辞めた時に、「走りたい」「いつかスパルタスロンに出たい」という思いが強かった。それは自分の内側から出た本音だ。これまでの人生、どこか自分で決断できたことがなかったように感じていたが、ここでようやくスタートしたと思えた。「夢中」に勝るモチベーションはない。
それがようやく今年叶いそうなところまで来ている。

では、「なぜ走るのか」「走る意味は何か」。

これまでは、「意味なんていらない」「やりたいと思ったことに挑戦するんだ」と謎に尖って、走り続けてきた。今でもその純粋なモチベーションは持ち続けているし、やっぱり走ることは生活の一部であり、楽しみでもある。


ただ、彼の話を聞くと、もう一つ別の次元があると気づかされた。
気付かされたというより、あるとは気付いていたが、今は見なくともいいと考えていたんだろう。

「最近、何かに刺激を受けた?」

そう聞かれて、ぱっと思い浮かばなかったのが恥ずかしかった。
安定しているともいえるのかもしれないが、ここ最近は身近な誰かに刺激を受けた瞬間は見当たらなかった。アンテナが鈍化している。

最近の行き詰まりはこれだ。
彼は、常に新しい刺激を求めているし、周囲に刺激を与えている。

「現実」を生きる

結局は、ウルトラマラソンも、スパルタスロンも、どれだけ長いと言っても「非日常」であり、その間にはもっと膨大な「日常」がある。
これからはこの「日常」に、自分が夢中になって得たものを還していきたい。

私が走ることで、世の中は何も変わらないが、身近な人にはもしかしたら感動は与えられるかもしれないし、その人の行動がほんの少し変わるのかもしれない。
それが、今の自分ができる精いっぱいの「誰かに何かを与えること」。
これが本当の野望なんだと気づいた。
スパルタスロンを走りたいだけじゃない、スパルタスロンを目指した自分でみんなに会いたいんだ。
ただの自己満と思われてもいい。それでも会って報告したいし、
周囲がこの挑戦から何か感じ取ってもらえたら、この上なく嬉しい。

「他人は変わらない。変えられると思うこと自体おこがましい」と思ってきたタイプだが、本当は誰かに影響を与えられるような人になりたいと思ってきたんだ、実はそこに執着してたんだと気づいた。

「夢」は手段だった。結局変えたかったのは「現実」だった。
手段はここまでうまく使えた。

スパルタスロンを使えば、普段言いにくい感謝の言葉や、照れるようなことも言えるかもしれない。関わってくれた友人や、家族、恩師…仕事にも違った向き合い方ができるかもしれない。


「夢中」で走ってきたからこそ、今がある。けれどここから先は「夢の中」ではない。「現実」を走る。


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