「アイドルはトイレに行かない」は宗教的信仰である
「アイドルはトイレに行かない」
これは現代の日本において常識である。
もっとも、本当に排泄しないとアイドルはものの数週間で死ぬことになる。じゃあウソか、と言われると制したくなるのが人なのである。
宗教がそれほど強く生活に根差しているわけでもない日本においてもかなり広く共有されているという意味で、これは一つの宗教的教義のようなものであるともいえる。
幸田文の幼年期を描いたエッセイである「みそっかす」では、
「きれいな人がなぜ排泄なんかするのだろう」
という一文がある。
明治から大正にかけて幼年期を過ごした氏でも「きれいなひとは排泄をしない」と認識していたわけで、こうした直感的な認識は「アイドルはトイレに行かない」という教義ともつながる部分がある。
実はこの美しさと排泄の問題は、極めて哲学的な問題である。
ミラン・クンデラの「存在の耐えられない軽さ」という作品には以下のような言葉がある。少し長いが引用してみる。めんどうなら飛ばしても問題ない。
神様が人を作ったのであれば排便につながる腸を作ったのも神様であり、そして人は神様に似せて作られたとされているのであれば、神もまた排便をすることになる。
クンデラ自身、神と糞が両立するとするのは「冒涜的」との見方を示しているが、たしかに感覚としては非常にマッチングが悪い。
アイドルというのは、クンデラが言及しているイエスの話をそのまま置き換えれば話が早い。
きれいなものから汚いものが出てきてしまうのであれば、きれいなものとは果たして本当にきれいなものなのかということになる。
そして、きれいなものが出すものがあまねくきれいなものであるならば、それをなぜトイレという「閉じられた空間」で出し人目をはばかる必要があるのか、という話になり、結局矛盾を来してしまう。
これを解決するにはクンデラが指摘しているような「糞が受け入れられ」た状態、すなわち公衆の面前で排泄をしてもケロッとしていないとおかしくなる。これは感覚的にも常識的にも、明らかにおかしい。
「アイドルはトイレに行かない」ということについて私が「宗教的教義」といったのもそのせいで、直感的な認識と論理的な現実とがどうにもそぐわない瞬間が出てきてしまうのである。だからどうしても論理に目をつむって、整合性はなくても「信仰」しないといけないわけだ。その宗教を信じることが幸福であれば、人に迷惑をかけない限りにあっては信仰を持っていればいいのだ。
「アイドルはトイレに行かない」ということばは、論理と直感そして現実と宗教のいずれを選ぶのかという、きわめて重大かつ大きな問いを私たちに投げかけている。
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