見出し画像

その一票は義理チョコになってはいないか

時期は異なるが、バレンタインデーのチョコレートが本命か義理かというのは重要な問題である。

女性としてはとりあえずうまいといってくれればいいものと、本気で告白するためのものとでは、同じチョコレートでも当然価値は違う。
男からすれば、ただ食うだけで済むものと手紙を付けてお返しをするものとでは大きな違いがある。

今ではすっかりチョコなんてもらわなくなったし、あまり食べなくなったものだ。
思い返してみると、義理チョコなんて誰からもらったのかも忘れてしまった(ごめんなさい)。

かたや、本命チョコをもらったひとのことを忘れることはない。
あの子とあの子と…と一人ひとりの顔が浮かんで、甘酸っぱい記憶が思い出される。


そこには一人ひとりの思いがあって、言葉がある。
こうした言葉や思いにまっすぐに向き合って、恋の味を知っていく。
ただもらって「あざーす、あーうめえー」というだけのチョコではない。


ところで、あすは参院選だ。

「ただ何となく」

ただそれだけの理由で、現状に流されて現職に投票する人も少なからずいる。

私たちは果たして本命のチョコよろしく、その一票を政治家に託しているのだろうか。

民主主義がきちんと機能しているのか、と聞かれてなかなか首を縦に振ることは出来ない。

無党派層の増加、これといった決め手を欠く選挙の繰り返し、投票率の低さ…民主主義に関わる問題をあげればキリはない。
民主主義はそのうち衆愚になるとも聞いたことがあるが、現代はまさにそれだ。

こういうなかで我々が思いも持たずに投票に行ってしまえば、その一票は「義理チョコ」的な一票になる。いわば、顔のない「数」になりさがる。

弁士はその数字だけを見て、一人ひとりの顔を浮かべることもなく政治家となっていく。
浮かぶ顔は利権に関わる懇意の友人くらいのものであろう。

選挙で政治家が叫ぶマニフェストやらなにやら、そういうものは
「この世の中はかくあるべし」
という信念、信条、思いがそこにあってから始まるものだと思う。

そのためには常に社会に対して批判の目を持たねばならないわけで、それに賛同する人が多ければ、合法的にその政策を実行する力を得るわけである。
本来はそうした思いの集合体が「得票数」でなくてはならぬ。
先述したバレンタインデーでいえば、己の投じる一票には、「本命チョコ」のときのようなガチ感が必要になる。
社会への思いの強さを選挙というバレンタインデーで示すようなものだ。

現実に目を向ければ、「投票すら行かない」という若者もいる。

いろいろ事情はあろうが、投票しないということはバレンタインデーで言えば誰にもチョコをあげないということである。
もしバレンタインデーに本命チョコがなくなったら、すこし寂しい気もする。
ま、恋愛に無頓着な若者は「別に」と冷めた態度をとるだろう。

これは社会や自分以外のものに関心が無いということだ。
つまり、思いや思想、砕けた言い方をすれば、「ハート」がない。


選挙に行かなくて済むのは、思いを持たずにいられるのは、なぜか。
それはひとえに日本が世界的に見ても生きるのが楽な国だからだ。
何も声をあげずしても、何も強く思いを持たずとも「まあまあ」な人生を歩める国だからだ。

これはひとえに身を粉にして戦った先人の功績といわざるを得ない。

ただ、そんな日本だって当たり前のものではないのもまた事実だ。
国をきちんとした形で次に引き継いで未来を護らねばならない。

もし、そこで誰も思いを持たぬまま時間が過ぎてしまえば、そこにはチョコを貰えないときよりも苦い世界が待っている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?