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「永遠に生きるつもりで夢を抱け。今日死ぬつもりで生きろ」

2015年だったか、「まれ」というNHKのテレビ小説があった。

ざっくりとしたあらすじをいうと、夢が大嫌いで真面目にコツコツやることをモットーとしていた希(まれ)という女の子がパティシエになるという夢をかなえようと奮闘する、という話だった。
その過程で無計画に子供を産んだりパティシエを一度やめたりと、「真面目にコツコツ」といった計画性とはかけ離れて色々と迷走していたところもあって時々批判が出ていたような記憶もある。

個人的に「まれ」という作品は、「夢をかなえるために奮闘する少女の物語」ではなく、むしろ「母親とパティシエという、二本の人生を完全な形で両立することの不可能性」というものが、その主題だったのではないかと私は思っている。


そういえば、私の幼年期の将来の夢は「ガソリンスタンドの店員」だった。その理由はガソリンの匂いが好きだったからだ。
今でもタイヤだとかガソリンとかのクルマ周りの匂いは、私の足を止めるに十分な魅力を持っている。

私は当時、「好き」という思いを将来の夢に乗せようとしたのだと思う。
「まれ」だって、それは変わらないはずだ。

でも、多くの人にとって仕事とは確実に好きなものではないし、やりたい仕事でも魅力を感じる仕事でもなんでもない。ただそこに労働があるからやっているという、極めて機械的なものである。
その企業がもたらす対価として、賃金がある。

「目の前に在るものが、自分がやっていることが、自分にとって好きかどうか」――そんな単純なことさえ、時間を経て、曖昧になっていく。
「好き」の輪郭は、霧のようにぼやけてしまう。小さいころは、あんなにも鮮明だったのに。

いつだったか、アーティストの小田和正が財津和夫と音楽番組に出ていた時、「好きなことをしてみんな上手く行く、というわけではない」という話をしていた。
だから、仕事が自分にとって「嫌は嫌だけど、そんな好きでもないこと」であることは、珍しいことではない。
もしそうではなければブラック企業に勤める人間は存在しない。生活のために労働を強いられている側面はどうしてもぬぐえない。

「好き」を追い求めず、現実性に引き込まれて平凡な人間と化していく過程で一般的な社会人・一般的な経済人という鋳型に肉体ははめられていくという感覚が私の中には明確に存在している。これは銀行員として働く中で見た啓示であった。

我々という「かけがえのない命」 は、そのうちに空気のように失われて、日常の中に埋められ、やがていつか忘れられていく。
しかし、こういう人間ばかりだと社会のハリはどんどんと失われていく。

夭折した名俳優、ジェームス・ディーンが

「永遠に生きるつもりで夢を抱け。今日死ぬつもりで生きろ(Dream as if you’ll live forever. Live as if you’ll die today.)」

と語ったように、夢を追い求める人がいないと社会から希望は失われる。
社会のラディカルな変化に必要な原動力をどこからも得られなくなる。

これは国の未来にとって極めて無責任なことだ。「夢なんて…」と冷めた目で見てどうなるのか。社会は良くなるのか。未来に光はあるのか。誰しも、美しい未来を夢見て生きるのではないか。お先真っ暗なんて状態で生きていきたくないだろう。希望もない中で生きるわけではあるまい。

ならばなぜ追わぬのか。答えは明らかなのに歩き出せないのは弱さである。
好きだという愛がそこにあるなら、夢を乗せて人生を生きればいい。

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