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スピーチににじむもの

結婚式のとき、新郎の父親がなぜかスピーチをする機会が多いように思う。奥さんと私の結婚式の時も例に漏れずその機会があった。

私の父親はしゃべるのが下手であり、基本的にコミュニケーション能力はあまり高い方ではない。さらに人前にもあまり出たがらない人間である。
それだけに、結婚式当日はガチガチに緊張し、そして紙を用意してきたにも関わらず途中でつっかえたり言いよどんだりという調子で普通の人が見たら「大丈夫か?」という感じだった。

もっとも、息子である私からみると「まあ、こういう人だわな」という実感だけがそこにあるだけで、「こういうときくらい頼むよ」みたいな落胆に似た感覚というのは一切なかった。
なお、母親はものすごく呆れた顔をしていた。うちでは平常運転であるが、よく母親もウン十年と父親と一緒にいられるものだと感心してしまう。

その結婚式のときにふと、父親のスピーチには彼自身がにじんでいるなと私は思ったのである。
スピーチは驚くほど下手だし聞いていられないが、くしゃくしゃの紙に妙な字で何度か書き直したような言葉が並び、自分で書いているくせにちゃんと読めない。なんとなくだがその奥には祝福の気持ちはあるような感じがするのだが、それを上手に表現することはできていない。
一言であれば気持ちはあるのになんか不器用というか、一事が万事そんな調子なのが私の父親である。

以前、文章を書くことについても「人が出る」みたいなことを書いたことがあったが、スピーチはよりそれが「取り返しのつかない形で」表れる。だからよりわかりやすい。スピーチには人生がにじむ。
自分がしゃべるときもそうだ。スピーチをするときには心底興味がないことだったり全く準備していないことだとたいしたことは喋れない。そこに人生がないと意味のないスピーチになるのである。

明らかに私の父親について言えばスピーチのためのスキルも足りないのだが、それはまあトレーニングの問題であるしそもそも人前に出ない人生なのでうまくないのは当然だ。そして当たり前だが父親だから話すのがうまいわけでもないし、スピーチの前には肩書というものはあまり意味をなさない。社長だろうが会長だろうがしゃべるのが下手な人は一定数いる。

それでもむしろ、その話しぶりや話し方などににじみ出る人生みたいなもののほうが、私にとってはスピーチを「聞く」事の興味深さでもある。
話が上手い人の話というのは「面白かったね」という陳腐な感想が出がちである。言葉にならない不思議な感覚が想起されることはほぼない。

書くことのようにやり直しがきかない、シビアなスピーチの世界だからこそ、内容ではなくそこににじむ何かに面白さがある。

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