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思い込みぱわー

私の母親は晴れ女を自称しており、「私が外に行くといつも晴れる」といってはばからない。
仮にそうであれば母親は体調が悪くない限り大概外に出ているので地元は原則晴れじゃないとおかしいはずだが、そこら辺を都合よく無視している。

もっとも、この話で私の母の頭がおかしいといいたいわけではない。何者であるのかを自分自身がどう認識しているかで、人生の在り方は結構変わるということを言いたいのである。

たとえば、会社にいる上司Aは「(悪い意味で)持っている」と口にすることがある。確かにA氏の部下はそろって問題児が多かったり、ことごとく使えなかったり、優秀な人ほどやめてしまい、A氏がキレていることも多い。
別に悪い人ではないのだが、とかく部下に恵まれなかったり、トラブルになったり、災難が多い。

かたや上司Bは「私は平和の使者だ」とよく語っている。
確かにその人の周りではやけに平和なことが多い。部下にも恵まれており、何かと物事が丸く収まる傾向にある。私もB氏の下で仕事をしたことがあったが、部下として(記者なので体はきついが)精神的にはそれほどつらくない局面は多かった。

これは経験から作られたものもあろうが、いずれも本人がどう自分を認識しているか、自分をどのような存在として思い込んでいるか、というところが作用しているのではないかと思うのだ。

「私は●●な人間だ」と思い込んでいるからこそ、その人は都合良く目の前の現象を「私が●●だからだ」と解釈することができて、そうではない事実に対しては都合良く無視することができる。まさに晴れ女を自称しながら、時に傘をさす私の母親と同じである。

裁判沙汰など真面目な話になると、目の前に起こった事象についてあれこれ勝手に思い込まれても困ってしまうわけだが、誰にも迷惑がかからない範囲であれば自分が何者であるのかをどう思い込むかなど個人の勝手である。
ほんの小さな思い込みだけで人生が少しでも明るくなるなら、そんな不思議に心を委ねる日があってもいい。

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