光が当たらぬ世界に思いが至る感性でありたい
人間は弱いもので、自分が頑張っているととかく「すごいだろう、おれはこんなにやっている」とマウントを取りたがるものである。
そして、どうしようもないやつだと「自分がやってきたもの以外は評価に値しない」と言わんばかりの偏狭な世界観を持ち、そして実際に口にする人間もいる。
さらにそれを悪気なくいっている人間もいたりして、そばにいるときにはきまって「いやあそこまでやられているのはさすがですね」などと口にしながらも心の中では「人間性終わってんな」などと別のことを考えていたりする。
世の中にはいろんなものがあるし、世の中にはいろんなひとがいる。
それぞれにもちろん大小はあるけれども、「ひとのために」というこころをもって事にのぞむことは、価値のあることだと思う。
たとえそれに光があたっていようがいまいが、そこには価値がある。だから、光の当たらない世界にも思いが至るひとでありたいものだと私は思う。
お母さんはわかりやすい。誰に褒められるわけでもなく、むしろいろんな軋轢を抱えながら赤ちゃんを育てる。
子供を風呂に入れ、飯を作り(またはお乳をあげ)、寝かしつけ、ともに遊び、そして子供の意味不明な世界観や言語活動に付き合う。自分の時間などろくにとれないし、これだけでもものすごいストレスだと思う。
外に出れば「子供がうるせー」などと子供以上に感情的な大人たちの批判を受けることもある。ベビーカーが邪魔だと睨みつけられる日もある。
でもそんな何でもない日々の育児に、光があたることなどほとんどない。同じ経験をした人くらいからしか理解をしてもらえず、少しずつ心が窮屈になっていったりして、それでも子供と向き合って日々を過ごすお母さんたちがこの世界の片隅にいる。
目立たない仕事なんかもそうだ。駅のトイレなどいつ使っても大体きれい(時々凄まじい吐瀉物にまみれている日もあるが)なものだが、そこには当たり前ながら自分が見ていない時に掃除をしてくれている誰かがいる。
当たり前のように使えるインターネットだってちょっとした障害が発生すればその障害対応に追われてああでもないこうでもないと24時間対応し続けているエンジニアの人たちがいる。どこかでコーヒーを飲んだりするならば、コーヒー豆を収穫するために日本から遠い異国の地でせっせと働く人たちがいる。
こういったひとたちにも光があたることも、ない。
Mr.Childrenの「彩り」という歌にはこんな歌詞がある。
光の当たらない仕事や作業、そして日常が、実は誰かの目の前の日常を作り上げていることをじんわりと伝えてくれる歌詞だ。これは同じことを繰り返す大人にならないとなかなかわからない歌詞の深みがある。
光が当たらないものにとかく光を当てようとするのがマスメディアではあるが、別に光を当てるだけではなく光が当たっていないところを何とか見ようと暗い暗い場所で目を開いて、いろんな人の話を聞きながら思いを至らせる——そんな感性を持つこともまた一つの選択肢である。
きっと、それは光の差し込むことのなかったモノクロの世界観が、マスメディアに映った時のようにビビッドに塗られるのではなくて、淡く、そしてほのかに暖かく彩られる瞬間でもある。
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