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固まりゆく人生へ

結婚をすることを「身を固める」なんて言い方をするけれど、私たちの人生は時とともに「固まっていくもの」なのだと思う。

小さなころ、人生は無限の可能性に満ちていた。
いわば拡大に向けた人生とも言っていい。何者にでもなれるし、どんな人生を歩むのかの選択肢は選びきれないほどに無限大だ。

年を重ねると少しずつ、選択の中でちょっとずつ可能性は絞られ、小さくなっていく。わかりやすいところでいえば文系と理系の選択とか、職業の選択とかなんかだろうか。システムエンジニアになった人がいきなり「電通でCMプランナーになりたいっす」なんて言い出したら、結構大変だ。

そうした選択のなかには、結婚や出産、不動産の購入や転職なんかがあるわけだが、選択を繰り返す中で刻一刻と人生の可能性は絞られていく。
そして、肉体も衰え、身体の動作もまた固まることになる。

「ああそうか固まっていくのか」と思ってぼーっと固まるのを待つというのは、人生がもったいない。
ならば、選択の中で可能性を絞っていくことを「人生を賭ける」ことだと思えば、何となく前向きな感じがしてくる。

だいぶ前だがある友人と話していた時に「人生ってしばらく拡大に向かってきたように思うが、そろそろ絞ったほうがいいんだろうと思う」みたいな話をしていた。
これもある意味で人生を賭けるということだと思うし、事実彼は経営者になった。

人生を賭けることは、別の言い方をすれば専門性を磨くことでもある。
数十年という時を経て一つの物事を繰り返すことで、刻一刻とほかの何かになれる可能性を失うと同時に、だれも追いつけない特別な存在・専門家になっていく過程を歩んでいる。

人生を賭けることができないと、結局自分自身は何者にもならないのだと思う。何者でもないことを自覚しているからこそ、人生を賭けてまで何を為すかを考えたほうがいいのだろう。

人生の可能性が狭まっている、すなわち「人生が固まり始めた」ときにこそ、何物でもない自分が何者にならんと一つの人生の軸を決めて研鑽を続けることに価値がある。
賭けられぬ人生を漫然を歩んでいる日々が数十年と続くことを耐えるのか、いったん賭けてみて何者にならんとするために今日一日を踏み出すか――選択は今こそ迫られているのである。

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