オンラインだから本当のコミュ力が問われるなと
3年前と比べると、いまは生活のなかでオンラインツールを使う機会が加速度的に増えていると思う。
電話でのやり取りがteamsやZOOMになり、直接会うことを避けてチャットでやり取りをし、そして移動することをやめ、起き抜けの服のまま家のパソコンの前に座る日々が仕事のほとんどを占めるようになった。
技術の進展のおかげでブチブチと音が切れたりすることもなく、本当に目の前にいるかのように会話ができている。
会社のおっさんたちは「オンラインだと…」とああだこうだ言っていたが、私たちが業務のオンライン化・リモート化によって失うと考えていたものは、思ったほど失われてはいないようだ。
とはいえ、オンラインでできないこともまだまだある。
まず、人に会わないから「ぬくもり」がない。握手をしたり頭をひっぱたいたり、抱き着いたりする時のあたたかさだ。
小さいころ、父や母の懐に入り込んで暖をとったことがあろう。そうしたあたたかさに幾何の安心を感じたのもまた事実である。
逆に言えば、そうしたぬくもりの与えてきた、不可視の精神の充足を得る機会は減ったということでもある。
ほかにも「場の空気」も、人と会っていた時には共有していた。
わたしは落語が好きだが、意外とYouTubeで落語を聞くと真顔で聞いてしまいがちだ。面白い場面でも「なるほど…」と勉強のように聞いてしまう。
かたや、実際に寄席なんかに行ってみると周りの人のほっこりした空気のせいで思いがけず笑いが漏れることがある。こうした現象はまさに周りの人の作り上げる、えも言われぬ空気のおかげだったりする。
そして、あと一つ共有していたのが「間」だ。
ビートたけしは「間抜けの構造」の中で「間の取れないやつだから『間抜け』なのだ」ということを言っていた。不可視でも重要なもののひとつだ。
特に笑うときなんかは間が決定的に重要である。誰かが滑った後のズッコケ芸なんてのは間が命である。
オンラインでも「本当に目の前にいるかのように会話ができている」とは言ったが、どうしてもラグがあるのは否めない。
こうなると「間」が決定的に重要な場面ではなかなか思うようにいかなくなる。笑いを狙ってドン滑り、ということも珍しくはない。
こうしたものがオンライン化で失われてきたことを考えると、逆の言い方をすればこれまではぬくもりや間、空気といったものに多少なりとも頼ってきたところがある、助けられてきた面があるということだ。
となると、オンラインだとごまかしがきかないという言い方もできる。目に見えるノンバーバルと言葉で勝負をしないといけない。
真のコミュニケーション能力が問われているともいえよう。
しかしそれはスキルという一面的なものではない。日々の生き方がそこには出るように思う。
「職業としての小説家」で村上春樹はこう語っている。
どれだけそこに正しいスローガンがあり、美しいメッセージがあっても、その正しさや美しさを支えるだけの魂の力が、モラルの力がなければ、すべては空虚な言葉の羅列にすぎない―と。
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