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死ぬことと本を読むこと①

ここ最近、本がたまりにたまってしまっており、自分の読書スピードの遅さに辟易としている。人間、死ぬまで本を読み続けて、結局すべてを読み切れないままその命を終えていくのだろうかと思ってしまうほどだ。

学生の時分、

「本を読まない文系は死んだほうがいい」(原文ママ)

と中国文学の先生から言われてからというもの、読書はとりあえずやろうという危機感からなんでも本は読むようにしている。

読書というのは学習の基礎基本である。
活字離れなどと言われて久しいが、大人になっても本を読まないというひとがいるという。
もったいないような気になるのは私だけなのだろうか。
本は一つの世界である。筆者の持つ宇宙といってもいい。その宇宙に触れる数は多い方がいいし、質も高い方がいい。それは当然のことである。

そうした「筆者の持つ宇宙」たる本との出会いのなかで、印象的なものが私にもいくつかあった。
ただ、私は小さなころから本が好きだったわけではない。このあたりは「本嫌いが本好きになるまで①」というところでも書いたのだが、少し膨らませて以下に記していければと思う。

幼稚園・小学校の頃なんかは、読み聞かせや読書感想文などは退屈以外の何ものでもなかった。その当時は、本の世界に入る感覚が全く無かったし、なにより忍耐力が無かった。

そんな中でも唯一、当時読んでいた(というか見ていた)のが伝記だ。
喜劇王のチャールズ・チャップリン、三重苦のヘレン・ケラー、フランスの盲人ルイ・ブライユなど、昔すぎて謎すぎたキリストなど、小学校の図書館にあったものは大体読んだ。

ただ本嫌いの私である。全部を読むわけではもちろんなく、決まって読むのは、「死ぬ瞬間」だった。
読んでもらえればわかるのだが、絶命の瞬間というのは小学校にある伝記には描かれていない。むしろ、死に際して描かれるその描写とでも言おうか、それが好きだった。例えば、

「雪の降りしきる12月、暖炉の前の椅子に座ってゆっくりと目を閉じて、それきり起きることはありませんでした」

みたいな。有名人の訃報に接して新聞なんかはコラムを載せるものだが、誰しも気の利いたことを言う。
死を悼むことばがいつだって美しいのだと知ったのはその時だったと思う。

そういった美しい文章に魅せられながらも、本に手を伸ばすことはなかなかなかった。
となると、塾の国語のテキストくらいしか作品との出会いの瞬間はない。
ここで出会ったのが、高村光太郎の「レモン哀歌」だ。妻・智恵子の死を描く傑作だが、これを読んだときにも恐ろしいほどの感動を覚えた。死の描写とはかくも美しいのか―と。

それからというもの、さくらももこのエッセイなんかに手を出しながらも、どこかで死の描写を求めていた。しかし相変わらず飽き性な私である。いかに短いかということが本を選ぶ水準だった。

「短い小説で美しい死の描写のある作品」。一口にこういっても、なかなかない。私も立ち読みなどをしながら探したが、立ち読みの場合だと登場人物が死んだのか死んでいないのかもつまみ食いだとわからない、という猛烈にダサい事態を起こしつつ、とりあえず手に取ったのが中村文則の「遮光」だった。(つづく)

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