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無力感と現状維持と

「️️現状維持では後退するばかりである」――よく聞く言葉だし、確かに正しいのだと思う。時間が経つのに、実力が変わらないというのは相対的な後退だ。

少し考えてみると、現状維持を望むということは、ある意味ではそれなりに望ましいいまがある、ということでもある。
同時に、自分の現状を支えてくれている世界や環境に対して、自分ができることはないという無力感がそこには漂っている。

明日食べるご飯もなくそろそろ飢えて死にそうです、という現状が目の前にあったとしたら「まあこれでもいいや」と果たして思うものだろうか。
「今の現状を打破したい」と思って、必死になるだろう。

たとえば転職する、ということは「こんな現状じゃ嫌だ」という欲求が奥底から湧き上がっている証左でもある。そして「自分が行動することで、目の前の現実を明るい方向に変えることができる」と信じているということでもある。自己効力感ともいうべきか、そういうものが自分の中から湧き上がってくるから、現状維持ではない選択をすることができる。
私も転職しているので、よくわかる。

現代社会を生きていると、次第に無力感が募ってきて、自分自身は社会における極めて小さな一部に過ぎないことを認識する。
そして「こんな小さな自分にはできることなんてない」「未来が見えない」と感じ、少しずつ今のままでいいや、と守りに入る。

世の中に転がるややこしい問題に目を向けようとしなくても、自分の生活の安定が音を立てて崩れ落ちる、なんてこともない。
なおさら、現代社会について考えることが面倒になって、安定した今があることが当たり前になっていく。
「無力で社会には何もできないし、何もする気はない」と感じているひとでも、少なくともこの世界には確かに生きる権利があるのだ、ということだけは声高に主張する。


不思議なものだ。国に対して何をしようと思っているわけでもないのに、ただその国に生まれたというだけの理由で、その恩恵をあずかることは当たり前だと感じてしまう。

「国から何か恩恵にあずかっている」と気づいたのであれば、少しは国や社会にお返しするものがありはしないか、と探してみるのがふつうではないのか。
鍋を食べれば無くなっていくのと同じで、誰かが恩恵を受ければその分は無くなる。
子供じゃあるまいし、食べるだけ食べて遊んでいては破綻するのは目に見えている。
誰かが具や出汁を足さないといけないのだ。

いろいろ考えた結果「国に返せるものなんてねえです」と結論づけるのは勝手だが、しかし国があることを当たり前にして文句を垂れるばかりで、自分が特に公のために何もしないというのははなはだいびつなことだ。現状維持にも力が必要なのである。

「これ以上の発展はしなくてもいい、国が守ってくれるから」と本気で思っているのなら、それはあまりにも恵まれ過ぎてしまったがゆえに平和という名のお花畑のなかですっかり思索することを忘れて呆けているだけの話である。

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