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「妙だな」と思える感性を求めて

かの有名な金子みすゞは「みんなちがって、みんないい」という言葉を残した。
各々が個性を持てて、違いを尊重して、という考え方は非常に美しい。個人的にも好きな言葉のひとつだ。
本来、人なんて自分が考えたいことを考えたらいいし、やりたいことをやったらいいはずだ。人間は自由である。

しかし「みんなちがって、みんないい」という言葉をそのままの意味でとらえると、自由は途端に放縦になる。「何やってもいいんだろ?」という意味合いになってしまうのは間違っている。

物騒な話になるが、だいたい宗教の過激派になると人を殺めることを何らかの形で正当化しはじめるものである。
イスラーム教のテロ組織やオウム真理教、共産主義など挙げればきりはないが、「神は戦いを命じているのだ」とか「暴力革命を起こせ」みたいな調子で、人殺しを正当化している。

言うまでもないが、殺人は許されることではない。
個人的には、殺人とは相手の自由を最も大きく制約する行為だから駄目だ、と今のところ考えている(そして、一部の例外である死刑は、自由を制約した人間を自由にしておくと他の人間の自由を制約するから、そいつの自由を制約せざるを得ないという理解をしている)が、自分なりに腹落ちする理解をしていればそれでいいのだろうと思う。
幼い子供でもない限りは「自分で考えて理解してください」で終わりである。

E・フロムの名著で「自由からの逃走」という本がある。
ざっくりいうと、人間は強烈に孤立を避けたがるため、他者の自我を喪失させながら自らの自我を喪失させんと権威に身をゆだねる心性があるという内容なのだが、その権威みたいなものに身をゆだねんと宗教を信じたり、世論を動かすような人の考えをうのみにしたりするのだろうと思う。

社会全体で共有される絶対的な規範が薄れゆき、分散して様々な規範が乱立しやすくなっている時代にある。だからこそ、たとえ論理に一貫性らしきものがあったとしても、個々人が「これは妙な考え方だ」と思える感性が必要になっているのだと思う。
金子みすゞの美しい言葉が美しいまま存在できるように、私たちには鋭敏な感性と確かな自律が必要である。

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